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精神の支援者が遠い?

「傘を差し掛けてくれる支援者より、一緒に雨に濡れてくれる支援者が良い」。

そんなtweetを見かけることが続きました。
私は ここについたいいねの数の多さに、治療者が自分の安全圏にいることに 違和感を感じる患者さんが多いのなのかなと感じました。

もちろん色んな場合があるのはよく分かります。
前提に そのぐらいの心の温かさがないとできない仕事であるし、職によっては「これが精神医療の支援者か?」と思われるようなハードな対応をする人もいるのは事実でしょう。
ただ、私は 心の温かさと同じぐらい治療者は 少なくとも患者の前では安全圏に居ることが大切だと思っています。

私の最初のカウンセラーはただ優しいだけではありませんでした。
治療者は患者と対等とは言いますが、同時に患者の心を映す真っ白いスクリーンだとも言われます。

治療の場は100%患者にフォーカスした場所です。
治療者は100%患者のありようを患者に開くことで安全を担保します。
だから治療者が何者だろうと、まずは治療者の人格ではなくてそれができうる専門性が大事だと個人的に思います。

雨に濡れる気持ちが想像できる、分かる事という事は大事ですが、それはいくら優しくても、自分が同じように雨に濡れている必要はなくて…
それを患者に示す必要もないのです。

私は治療者に難癖をつける嫌な患者と思われがちなのだけど、基本的な事を実直にしてくれるカウンセラーさんなら経験値は低くてもそれをリソースにして自分で立ち上がれる事を覚えさせられました。
「あの先生がいなくてはダメ」という方向に導くのではなくて、「助けがあれば私は大丈夫」と思えるように育てる。
それが私にとっては幼児期に失われた「世界への基本的信頼」の義足となりました。

いつの間にか、私は治療者がそんな当たり前の技術を身につけるということが、治療者もある程度は患者と同じように自分に向き合う事であると感じるようになりました。
頭や知識だけではなく、治療者が自分自身の人格をもってその技術を磨くことだと知っているので、私はそれに敬意を持ちます。
だから私も 治療の場では指定された自分の場所に座って自分に向き合う治療を受けたいと思います。

どんな流派じゃダメとか誰ではダメとかではなくて、自分に向き合う。
治療者は一人の人間でありながら、そういう聖域を人として守る。
そんな治療関係の中で自分の心が納得できたときに、そこにしかない信頼関係が私の人生を変えてきたんだろうと思うのです。


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