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神様になったおばーと家族の物語


皆が静かにうちかび(先祖供養に用いる冥途の紙幣)を燃やす炎を見ている。一人一人に手渡される線香を両手で受け取り額の高さまで持ち上げて祈りを込める。小さい子供から最高齢の84歳のおじ、立昇まで皆、同じ仕草で先祖に手を合わす。うちかびが全て燃えた後のボウルに、お供えのご馳走とお酒を入れ、そこにお茶を少しずつ注いでいく。最後におじ・立昇の長男の“りん”の音で皆が仏壇に向かい手を合わせる。
賑やかな我が家が静謐に包まれる。厳かで大切な、この行事は彼岸とお盆に行われ、私がまだ幼いころからずっと同じ景色が続いている。
今から書く物語は101歳で本当の神様になった祖母と家族のお話です。
沖縄戦を生き延びた祖母。沖縄と関西の懸け橋となった祖父、叔父、叔母。家族の絆と、関西に住んでいる沖縄を大切に思う人々とを繋いでいった出来事を、私の体験を元にお伝えします。
今回は祖母の人となりを知っていただきたく、今から6年前に行った祖母の歳祝い『かじまやー』(沖縄で行われている数え歳97歳の長寿の祝い)で妹が来賓の皆様に向けて記した手紙の一部を紹介いたします。
 
ご参列の皆様こんにちは
本日はお忙しい中お越しくださいましてありがとうございます。
お陰様でトミーおばあちゃんが生まれ年祝いのかじまやーを祝うことができました。
これも偏に皆様方の日ごろのご厚情と感謝申し上げ、おばあちゃんへのご支援にも厚く御礼申し上げます。
 
おばあちゃんは大正11年1月10日に四男四女の次女として沖縄の南大東島で生を受けました。
おとなしい性格で何でも器用にこなすおばあちゃんは、弟妹が生まれた際、沖縄本島から来た祖母を「一人で帰せない」と、付き添いで一緒に本島に渡る事になりました。おばあちゃん5歳の時でした。本島北部にある本部町具志堅では水汲みから日々の料理、何でも手伝い、とりわけ子守りも上手で近所の赤ちゃんを背負いながら畑仕事を手伝っていたそうです。
付き添いで行ったはずの祖父母のもとで重宝され、12歳まで過ごすという長い生活になりました。何十年経っても姉のモトおばさんは「可哀相なことをした」と言っていました。親元を離れての生活は寂しかったと思いますが、おばあちゃんは本部小学校で一生の友となる浦崎貞子さんに出会えたのが良かったと話していました。何でもプラス思考があの笑顔を作っているのかもしれません。貞子さんが言うには「走りも一番、勉強も一番、何をしても富ちゃんには勝てなかったさぁー」と、聞かせてくれましたが、子も孫も誰もその血は引き継いでいないようです。(笑)
 
幼馴染の祖父と結婚をし、大阪に移住するも戦争が始まり、祖父は大阪で軍の事務職として残り、おばあちゃんは3歳の長男と1歳の次男を連れて沖縄へ疎開することになりました。皆さんはご存知でしょうが、沖縄は激しい地上戦になり、乳飲み子を連れて逃げるのは、大変だったようです。泣き止まない赤ちゃんがいては敵に見つかると防空壕には入れてもらえず、二人の子供を連れジャングルを裸足で移動し、恐ろしい景色も見てきたそうですが、戦争の話も重苦しくなくサバサバと「お乳が足りなくて泣いている他所の赤ちゃんにもよくお乳をあげたもんだよ。アメリカ兵より日本兵のほうが怖かったよ。」など当時のはなしをたくさん聞かせてくれました。
 
何でも器用にこなすおばあちゃんは、大人になっても一番さん。戦後アメリカ兵の軍服をクリーニングする仕事をしていた時も「ママさんがアイロンした服は気持ちがいいよ!」と評判だったそうです。
大阪に戻ってからは、北区の天満で食堂を開けば、お味噌汁がおいしいと評判のお店になり、店の前の道にはタクシードライバーが車の列を作っていたそうです。
その後住まいを大阪の西淀川区に移し、祖父が起業した豆腐と油揚げの工場を切り盛りする女将になりました。朝から晩まで工場で働くおばあちゃんは愚痴もなくニコニコ。 沢山の孫の面倒、県人会活動で顔の広い祖父の来客のおもてなし等々。休む時間も無い程忙しいはずのおばあちゃんの周りには、なぜかゆっくりとした時間が流れているようでした。
誰かが勝手に預けた凶暴な鶏とポニーの世話を「困った困った」と笑いながら行い、いつ手入れをしているか分からない工場の隅の小さな畑には、沢山の花々や野菜がいつも作られていました。
 
叔母の道場に稽古に来る方へのお茶の時間、近所の子供達に食べさせるサーターアンダーギー、作ってくれる食事は、おばあちゃんの“てぃあんだぁー”入りで何でも美味しく、寝ているときに仰いでくれる団扇の風さえも特別なんです。すべてに愛情を注いでくれているんだなぁとつくづく感じました。
朝夕のうちゃとう(仏壇に供えるお茶と食事)を毎日欠かさず行う規則正しい真面目な生活、丁寧な生き方、そんな時間が、かじまやーを迎えることに繋がっているのだと思います。
ここ近年、おばあちゃんも年寄り特有の物忘れから始まりだんだんと年老いてきました。今はほとんど、うちなーぐち(沖縄方言)しか話さなくなりましたが、私達はおばあちゃんはもう神様の領域に入り、神様と話が出来る神言葉を話しているのだと思うことにしています。 
しかし、体はスーパーウーマンです。かかり付けのお医者様にも「山端さん、血液検査今日も100点満点です!鉄人です」と此処でも褒めてもらっています。
ご参列くださいました皆様、本日は時間の許す限りおばあちゃんとの時間をゆっくりお過ごしくださいませ。
七番目孫 稚津子

 
この物語が、今読んでくださっている皆さまの傍に居る人を想い、又大切な誰かを思い出すきっかけとなれば、と思い、書いてゆくことにします。