見出し画像

「知らんけど」で終わる演劇の話をしよう

「言語と身体、身体と言語 」

照りつける日差し、体中から噴き出すおびただしい量の汗が、新しい季節の到来を告げている。今年もやってきたのだ、夏が。そんなはじまりの月とも言える今月も、要チェックの舞台が目白押しだ。今後も観劇の際にはぜひ、本紙の情報欄を役立てていただきたい。

その中でもとくに注目してほしいのが、7月19日から21日まで伊丹AI・HALLにて上演される、ミクニヤナイハラプロジェクト『前向き! タイモン』だ。昨年、第56回岸田國士戯曲賞を受賞した今作は、矢内原美邦の代表作とも言える。

また御存じの方もいるだろうが、彼女は今年度から、本紙の発行元である近畿大学舞台芸術専攻の準教授として教鞭をとっている。そして我々編集部は、先月26日にこの気鋭のアーティストをゲストに招き、トークイベントを開催した。今月号には、このイベントの模様をたっぷり掲載しているので、じっくり目を通していただきたい。

さて、このトークイベントの内容で筆者が気になったのは、演劇とダンスをミックスした作品をつくろうとした際に直面する問題……すなわち、「身体と言語、両方の能力をあわせもった人間がほとんどいない」とする矢内原の発言だった。ここには、今の舞台芸術が向おうとしている先を読み解くヒントがあるのではないだろうか。

時を遡ってアングラと呼ばれた時代、唐十郎の『特権的肉体論』に始まり、寺山修司、鈴木忠志……彼らは役者の身体を重視し、「肉体」というものに対しても多くの議論がなされた。それに次いで登場した野田秀樹においても同じことが言える。そこからさまざまな流れがあり、やがて平田オリザの手により、「身体性」が希薄な「現代口語演劇」というものが生まれた。そして時代は巡り、再び演劇界では身体、もしくは「身体性」なるものが問われている。

昨今、福祉や教育といった分野にまで焦点があたり、今まで以上にコミュニケーションや対話の必要性が説かれる一方で、SNSの普及などによりますます精神的な「つながり」に傾いていく現代社会において、演劇界という世界の片隅でいま改めて「身体性」が問われている実情をどう見るのか。そういったことも踏まえながら読んでいただれば、より一層楽しめる記事になっているだろうと思う次第だ。

◇◇◇◇◇◇

今度はこのような文章が見つかった。これまでにも紹介してきた、大学時代に製作していた舞台芸術の新聞に書き下ろした巻頭文(2013年7月号)である。

ここでは「身体性」という言葉を使っているが、それとともに時代の流れの中で二転三転してきたのは、演劇の「祝祭性」だ。

文中にも登場した平田オリザの言葉を借りるなら『都市に祝祭はいらない』のであり、必要にしろ不必要にしろ、多くの人が望む演劇というか、端的に言うと世間の好みになるだろうか、そういうものの転換点は阪神淡路大震災や3・11など、いつも私たちが大きな危機に直面したときにあった。

そう考えるとCOVID-19の流行する現在もまた、このような転換が起こってもおかしくない気がするのだが、「無観客」「リモート」といった感染症の余波により欠落しつつある「身体性」は、ますます問われているように感じる(「ように感じる」と曖昧な表現をしたのは、私はこの文章を書いた翌年に体調を崩して長らく演劇界からも遠ざかっていて、まだはっきりと昨今の実情を把握できていないからだ)。

では、「祝祭性」は? 正直、COVID-19によって再び見直され、試行錯誤が続いているのは、これなのではないかと思う。
このような時期だからこそ、気楽に楽しめる作品をつくりたい。そうした話を演劇人から聞いたことはあるだろう。
彼らは……いや観客も含めたすべての人々がこの危機的状況において、「都市に祝祭はいらない」のかどうか、改めて自問自答しているように思えるのだ。

◇◇◇◇◇◇

……とまあ、前回の記事に続きそれっぽいことを書いてみたが、USBメモリからデータが出てきたので、せっかくだし載せようというただの貧乏性をごまかしただけであって、おそらく論考として穴だらけだと思うし(知らんけど)、じつはそんなに小難しいことは考えていない(知らんけど)。

これから真面目に演劇を続けるのならいずれ直面する問題だとは思うが、私が活動を休止せざるを得なかったのはこのような話を真剣に考えすぎたことと無関係ではないので、多少不真面目でもいいと思っている(知らんけど)。

てか、「知らんけど」ってもう死語? ギリセーフ?
知らんけど。


おしまい

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

演劇には、とにかくお金がいります。いただいたサポートは私の今後の活動費として大切に使わせていただきますので、なにとぞよろしくお願いいたします。