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維新派 松本雄吉への渡せなかった手紙

維新派 
松本雄吉様

はじめまして、伊藤芳樹と申します。
私はいま、近畿大学舞台芸術専攻で演劇について学んでいます。
その中の授業で維新派の映像を観て、既存の演劇の枠にとらわれない新しい表現スタイルを確立している維新派という集団に強く興味をもちました。

私が維新派の舞台を観て感じたのは、その言語性、身体性もさることながら、特異な虚構空間の圧倒的存在感でした。
あのような場をつくりだすには、松本さんの頭の中で空間構成のビジョンが明確にあるのではないか、と感じました。
舞台上に登場する白塗りの人物たちは、無機質で、どこか記号的です。緻密に計算されたその劇空間は、数式をも思わせます。
このようなことや、野外劇という形にこだわること、公演の際には飯場を設けて共同生活を送るということからも、松本さんは演劇というもの自体を「台詞」「役者」などといったミクロな視点よりも、まず先に「場」「空間」といった、マクロな視点から捉えているのではないか、という気がしてなりません。
それは、松本さんがもともと美術家志望であったことにも関係しているのかもしれません。

「演劇とはなんだろう?」「なぜ、演劇をするのだろう?」
このところ、こんなことばかり考えています。
私は、今年の5月に友人たちと劇団を立ち上げ、活動をはじめました。
いま、ちょうど次の公演に向けて準備を進めているところなのですが、その中で、やはり「自分だからできること」をやりたいという気持ちが強くあります。
そうやって考えていくと、当然ながら、前記の問いにぶち当たります。
ですが、このことを考えていると、まるで底なし沼に沈むような気持ちになります。

私はつい最近まで、「演劇が好きだ、演劇には力がある」といった、さももっともらしいことを言っていました。
もちろん、そう感じたのは嘘ではありません。
実際、私は、「悩みを抱える10代の子供たちと演劇を通じて交流する」という趣旨のワークショップにボランティアスタッフとして関わるうちに、演劇のもつ「自己との対話性」、また「他者との対話性」に惹かれて、わざわざ大学で演劇を学ぼうと思ったのでした。
しかし、演劇の可能性というのは、このような言葉では表現し得ないものがあるように感じるのです。
それに気づいた時、わかったつもりになっていた自分が恥ずかしくなりました。

そして、いまはこう思っています。
「わからないから、やってみる」のだと。
なにか大きな可能性を感じるけど、それがなになのかわからない。だから、さまざまな舞台を観に行くし、自らもやってみる。
わからないから知りたくなるというのは、なんだか、恋わずらいのようです。
もう、「演劇が好きだ」などとは言えません。むしろ、「大嫌いだ」くらいの気持ちであります。

こういったことをくり返し考えているときに接した維新派の舞台に、私は、その「わからないなにか」の一端を見た気がするのです。
松本雄吉という人間を、もっと知りたいと思いました。
松本さんのもつ視点が、今後、私が演劇を続けていく上でのヒントになるのではないか……そう思います。
そのような折に、今回、公演後にお話を聞かせていただく機会を得ることができ、不躾とは存じますが、このような手紙をお渡ししようと考えました。


どう終わろう

◇◇◇◇◇◇

なんだ、これは。データを確認すると、2012年作成となっている。
はっきり言ってよく覚えていないのだが、「どう終わろう」で途切れているあたり、この手紙は渡せなかった(渡さなかった?)のだと思う。

記憶の糸をたぐる。

私はこのころ、「自分だからできること」をやりたいと考えていたのだけど、結局翌年の公演では「オリジナルなどない。すべては先人たちの模倣(コピー)、またはその継ぎはぎであって、それらがトレンドとしてくり返されているだけだ」という当たりまえといえば当たりまえの結論に至り、そのようなことを表現する作品をつくった。
ただ、演劇のための演劇になりすぎたきらいがあり、くわえて当時の私の余裕のなさが作品その他もろもろにもあらわれ稚拙の極みとなって、まわりには迷惑をかけ、結果としてまったく理解されなかった。

この手紙で私は、演劇に「大きな可能性を感じる」と述べている。若いな、と思う。
いまの私は、それすらも揺らいでいるからだ。「可能性なんてあるだろうか?」「演劇は社会にとって、本当に必要だろうか?」と。
言うなれば、出会う前の状態に戻ったのだと思う。しかし、明白に違う点もある。

そう、現在の私には演劇を通しての経験や想いが蓄積されている。それを頼りに、細々とでいい、活動を続けていきたい。

◇◇◇◇◇◇

あのとき、こいつを渡せていたらどうなっていた?
あるいは、大きな違いはなかったかもしれない。それでも……

考えても仕方のないことを考えてしまうのは、夏の一日が長いせい。
もうこの世にはいない松本さんに想いを馳せながら、キーボードを叩く音だけが、ひとりの部屋に響く。

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