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自分を大事にする=周りも大事にする

本当に憂鬱だった。私なんかが授業して良いんだろうか?

生徒たちからのフィードバックに、2学期再び教壇に立つことに恐怖と絶望を覚えた。胸がムカムカして、つわりのような気持ち悪さがなかなか拭い去れなかった。逃げ出せるモノなら全て放り出して逃げ出したい。8月のまま、日付が止まっていて欲しい。

授業が近づくにつれてなんとも言えない重たいモノが心の中からせり上がってくる。

どうやって、これを面白く伝えられるのか。寝ない授業が出来るのか。

そして今日。とにかく、毅然とした態度では挑もうと臨んだ授業。

私の授業はどうせ面白くないから、寝ている子がいても仕方ない、おしゃべりしている子がいても仕方ない。どう扱えば良いかわからないから、聞いてくれる子が聞いてくれればそれで良いからと、注意することから逃げていた。どうせ面白くないからと、自分を諦めていた。

結局の所、自分自身を軽んじていた。「どうせ私なんかモード」で全てが染まっていた。

個人的に一対一で生徒たちと話す機会があったとき、「授業ちゃんと聞きたいから注意して欲しい」という意見も言ってくれていた。

私が楽な方に流れることで(やっぱり注意するのはとってもとっても勇気が要る)、真面目に授業聞いて勉強したいと思っている子どもたちまで蔑ろにしてきたんだなって事を、改めて肌で感じた。

私の声が小さくて聞こえにくいっていう意見にも対応するために、黒板の前で立ったまましゃべるんじゃなくて、生徒の席の通路(教室の真ん中らへん)に立って、出来るだけ、四方に声が行き渡るようにした。一方通行の授業にならないように、復習がてらの質問をことあるごとにどんどん、生徒にしていった。コッソリ授業と関係ない動画を見ている生徒には、トントンとノックをしたりした。

出来るだけ、自分の授業はどうせ面白くないからって諦めモードを拭い去って、授業に参加してね、っていうサインを送るようにしてみた。

面白くないかも知れない、興味ないかも知れない、それでも、折角学べる機会を、最大限に活用して欲しい。義務と捉えるかも知れないけど、権利だと受け取って、最大限に知識を吸収して、みんなの将来への糧として欲しい。なんでその事実が起きたのか。その事実を知ることで、未来にどう活かすことが出来るのか。今は理解できなくても、あのときあんな風に習ったこと、聞いたことはもしかしたら、ココにつながるかもしれないって、どこでどうつながるか分からないインスピレーションの一部になってくれたら嬉しい。

私が私自身を見限ることが、生徒たちの時間を蔑ろにすることでもあったんだと、今日の体験でハッキリ自覚できた。

自分を大事に扱うこと、この教科の授業をちゃんと聞いてね、と生徒たちに注意を促すことが、生徒たちの勉強しようという意欲もアップさせることにつながるんだって事をヒシヒシと感じた。

これからも試行錯誤は続く。

だけど、今日の体験は、自分自身へのマイルストーンとなった。


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