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外観と実用について

楽器の外観(見た目)に割く労力

楽器を作る際、その制作過程における労力は、どのような目的に対して注がれているか。
多くの人は、それは当然「音を奏でる道具を作りだす」という目的のために割かれているのだろうと、そう思うかもしれない。
道具としての楽器における目的とはつまり、実用の道具としての楽器に求められる要素−−音色、弾きやすさ、堅牢さ等である。
けれど、工房での修行時代、そして現在における自身の楽器製作のやり方を通じて得た私自身の実感はそれとは少し異なっている。
私自身の楽器制作における労力のおおよその配分は、音色を奏でる実際的道具としての構造を仕上げることに半分、そして残りの半分は外観を美しく仕上げることに対して割かれていると思う。

「楽器は音を奏でる道具である」と考えるならば、その目的と直接の関係を持たないように思える外観という要素にそれほどの労力をかけるのは如何なものかと思われるかもしれない。
かく言う私自身も自ら工房を立ち上げた際には、「外観」と「実際的用途(音色、弾きやすさ、堅牢さ)」という制作における大きく分けて2つの要素をどのように捉え、どちらに重心を置くべきか迷っていた。
楽器の外観に拘りすぎるのは、音を奏でる道具としての楽器という本筋に外れるのではないかと考えていたからだ。

私が制作するギターやウクレレの場合、それは乱暴に言ってしまえば、木を削り、接着し、塗装して弦を張れば一丁上がり、というものではある。そしてそれでもいい音がすることは十分にあり得る。
けれど修行時代における実際の削り方や接着などの仕方は、それを丈夫にきっちりと仕上げる気配りだけでなく、綺麗に美しく仕上げることもまた同じくらい求められた。
それに、たとえばペーパー掛けや塗装などはむしろ外観を綺麗に仕上げるために施すという意味の方が大きいとさえ言えるかもしれない。
つまり実際の楽器制作の方法について見てみれば、それは単によい音を生み出せる構造(弾きやすさや堅牢さも含め)でさえあればよいものとしては作られていないと言える。
それは構造だけでなく外観についての配慮も求められるものなのである。
過去の多くの美しい楽器たちを見ればわかるように、そこには楽器の外観を美しく仕上げるために多くの手間と神経が注ぎ込まれていることが見て取れる。
けれど、今まで先人達がずっとそうしてきたからという事実を示すだけでは、外観にも重きが置かれてきたことの理由について理解できたことにはならない。
本質的なことは、なぜ人は楽器に音色のような実際的用途だけでなく外観の美しさをも同時に求めるのかというその点であろう。
音色のみを追求した楽器、あるいは外観のみを追求した楽器というものが受け入れられないのは何故なのかということである。

「物の用」と「心の用」

柳宗悦は、民衆が普段何気なしに用いている工芸品に宿っている美しさを「発見」し、それらの美しい工芸を「民藝」として評価した。
楽器もまた「音を奏でる」という実用性を備えた制作物であるからには当然工芸の一部に加わる権利をもつと言えるだろう。それゆえ、柳における工芸の美についての考え方は楽器というものを考える際にも役立てることが可能だと思う。
柳宗悦は、工芸における美しさについて以下のように語っている。

「凡てを越えて根底となる工藝の本質は「用」である。」(P.69)

これはいわゆる「用の美」といわれるものを端的に示した箇所であろう。
しかし柳の言う「用」とは、単に道具のプラグマティック(実利的、実際的)な面のみを指すものでは決してない。使い勝手さえよければ外観を全く気にしないでもよいということではないのである。
柳は言う。

「だが注意深く私は言ひ添へよう。ここに「用」とは單に物的用といふ義では決してない。〜用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。凡ての誤謬と偏見とは是等のものの峻別から起る。」P.70

「若し單に物への用なら何の美が必要であろう。工藝から色彩も模様も卽刻に消え去るであろう。」P.71

「あの土に鋤を入れる時、口に謠(うた)が伴ふやうに、用ゐる器には美が伴ふ。用は美を産み、美は更に用を助ける。」P.71

心が求めることをたとえば「心の用」と表現し、実際的な必要性を「物の用」と呼ぶとする。
そのような「心の用」は心にとって必要な要素、たとえば装飾などの外観を含むものである。
しかし、もっと注意深く見るならば、心が求めるのは何も見た目の美しさだけではない。それは使いやすさや触り心地など、実際的な要素、つまり「物の用」をも含んでいるのは当然である。
美しい装飾は、実際にその道具の使い心地の良さを増すために施されるのである。
つまり柳においてこの心と物というものは結局一つの分けられないものとして「用の美」という価値のうちに総合されていると言えるだろう。

ではこのような美の関係を楽器にあてはめると、どのようなことが言えるだろうか。
楽器における音色(あるいは弾きやすさ、堅牢さ)のような実利的な要素は、外観という一見実用と無関係なものと切り離すことができない。そして一方で外観もまた、その楽器の持つ音色と離れがたい関係を持つものとしてある。
美しい音色のイメージは、美しい楽器の外観を創り出すことに寄与し、更にまた美しい外観はその楽器の音色を更に美しくする。
外観とは、単に外観そのもののために追求されるべきものではなく、それは「音を出す楽器」という全体的目的の一部に奉仕するものとして追求されるべきものである。
反対に、音のみを第一に考えてその外観を疎かにする事もまた、かえって自身の本質である音色そのものを損なうことになってしまう。
なぜなら楽器の音とは無機質な機械が聴くものではなく、心を持った人間が聴くものであり、人において楽器の外観の違いはその音色を実際に変えてしまうためである。

外観とは実用性の一部である

以上のことから、私にとって楽器の外観というものが制作においてどのような意味を持っているかを述べたいと思う。

外観とは楽器の実用性の一部なのであり、だからこそそれに対して十分な配慮がなされなければならないものである。結局のところ、醜い楽器は実用的でないのである。
外観や構造、音色などのどれか一つのみを取り上げてそれだけを追求することは「実用的」な楽器を作り出す方法として現実的ではない。
とてつもなく弾きにくい楽器は嫌気がさすだけでなく、その嫌気(心)と弾きにくさ(物)の両方によって、実際に楽器としていい音色を生み出せない。
それは外観にも同じく言えることである。人が醜いと感じる楽器は、実際にその音色や弾きやすさなどに影響を与えずにはおかないだろう。
だからこそ私にとって楽器の外観とは、その音色、弾きやすさ、堅牢さと同様に「良い楽器」を作る際に重要な意味を担う要素である。
「実用的」な楽器であるために、外観というものをほかの様々な要素とともに追求していけたらと思う。
「用の美」がかすかに発する、あるべき楽器の姿に気付けるよう精進していきたい。


参考文献:柳宗悦(1983)『工芸の道 新装・柳宗悦選集1』平文社



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