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存在しない≠そこにはいない
『そこにはいない男たちについて』 井上荒野 読了レビューです。
ネタバレ:なし 文字数:約1,900文字
・あらすじ
「まり」と「光一」の2人は結婚しているものの、終わっている、とするのが正しいのかもしれない。
「実日子」と「俊生」の2人は結婚していたものの、夫の俊生に先立たれたことで、終わってしまった、とするのが正しいだろう。
接点のあるようでない2人だけれど、実日子が講師を務める料理教室にまりが「ある目的」のために通い出すことで、そこにはいない男たちについて、少しずつ物語が動き出すのだった──。
・レビュー
形だけの夫婦と伴侶に先立たれた夫婦。
そんな2組を主軸に据えているだけに、全体を通してじめじめと湿っぽく、一方の夫婦が迎える結末に「そっかぁ……」と溜め息が出てしまうかもしれません。
もう一方の結末についても受け取り方が分かれる気がして、少なくとも読んで元気が出るタイプの作品ではないと思います。
ただし、作中で描かれる調理の場面は細かく、食材が手順を経て形になるのを読んでいると、なんだか料理がしたくなります。
肉はフライパンで焼いて、醤油と酒を合わせたタレを絡ませる。絹さやをたっぷり、茹でて千切りにしたものにはバターを絡めて、丼によそったごはんの上に、まずはそれをのせる。その上に肉。アクセントに実山椒の佃煮も少々。クレソンとトマトと小蕪にちりめんじゃこを散らしてサラダを作り、おつゆは白味噌で、玉ねぎとかき玉にした。
料理教室の講師をしている実日子はもちろん、まりの作る料理も手のこんでいるものが多く、食に対する意識というか向き合い方が真摯です。
食事は私たちが生きていく上で欠かすことができないものであり、その向き合い方には人間性が滲み出してきます。
味の嗜好、食べ方、口にしたときの反応など、おそらく人間としての好き嫌いとも関係してくるのに、本人は意識すらしていないかもしれません。
軽いようで重たい食事という行為ですが、1日に3食を摂るのが基本とされています。
すると不思議なことに、生きるために食事をするのか、食事をするために生きるのかと、関係性が入れ替わるような錯覚に陥ります。
だからこそ2人の置かれている状況のやるせなさが、用意される様々な料理によって際立ってしまうような気がします。
一方は作っても報われず、もう一方は作る相手が存在しないのですから。
まりが外から自宅マンションの窓を見て、次のように回想する部分には切なさがあふれています。
二十代のはじめ、まだ光一には出会っていない頃、夕暮れて電車で帰宅しているようなとき、車窓から見える家々の窓に灯る明かりを羨望していたものだった。ああいう窓が自分もほしい、と思っていた。でも、今ならわかる。明かりがついている窓の向こうに、もれなく幸福があるとはかぎらない。
一緒に暮らしてはいるけれど、そこにはいない男として夫を感じているのであれば、むしろ一緒にいるからこそ息苦しいものではないでしょうか。
夫を亡くして「寡婦」となった実日子は、そこにはいない男になった夫の俊生が今現在に影響を与え続け、生涯に渡ってそれが続きます。
私自身の話で申し訳ないのですが、好意を持っていた人を亡くした経験が私にはありまして、実日子が「地雷」と表現するものが確かに存在します。
そこにはいないのに何かがきっかけとなって、空白が痛みを与えてくるのです。むしろ会わなければよかったと考える実日子の姿に、私は静かに頷くしかありませんでした。
そこにはいない男たちに苦しめられる2人ですが、それぞれが出会う男によって状況が変わっていきます。
マッチングアプリで知り合ったウェブデザイナーをしている星野一博。
出張の鍼灸師で太極拳のインストラクターでもある勇介。
2人と彼らを繋ぐものが料理であって、そこにはいない男への想いです。
それは形をもたないからこそ振り払うのが難しく、しつこく絡みついてくるかのようです。
家族とは? 夫婦とは? 人を愛するとは?
数多の答えが存在するであろう問いに対して、彼女たちの辿り着いた結論ではない結果を目にしたとき、人と人との関係を捉え直す一助になるような気がします。
1つ確かなことがあるとするなら、誰かと食卓を囲むのなら楽しくありたいと、そう思ったのでありました。
なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?