老いたる者は日没の如し されど残光は衰えず
『健康以下、介護未満 親のトリセツ』 カータン 読了レビューです。
文字数:約1,600文字 ネタバレ:一部あり
・あらすじ
50代の筆者には80代に足を踏み入れた父親がいる。
80代に到る手前の誕生日、視力を失ったことから全てが始まる。
これは多くの人が避けられない、親の老いに立ち向かうトリセツだ──。
・レビュー
正直な話をすると絵が上手いとは言えないのに、どうにも読んでいて心がざわめきます。
それはきっと、私も筆者と同じような境遇になるのではと、ぼんやり予感しているためかと思います。
筆者の両親においては、父親が79歳の誕生日を迎えた日になって、いきなり失明したことから下り坂が始まったようです。
加齢による老眼で見えにくくなる方は多いですが、いきなり失明するのは穏やかではありません。
ただ、何かしらの予兆を放置して、網膜剥離からの失明を起こしたのが、奇しくも79歳の誕生日だったのかもしれません。
当然のように介護を担う母親ですが、その大変さで一緒に坂を下り始めた結果、やがて認知症となってしまいます。
◇
珍しい事例な気もしつつ、認知症は軽い重い、早い遅いかの違いで誰もが患うものです。
筆者の父親は外国の駐在員をしていたそうで、母親と揃って社交的かつ明るい性格だったようですが、老いたときにそれが問題になっていきます。
盲目になった父親は幻覚を見る症状が出たものの、どうにか収まってデイサービスに通うようになります。
一方の母親は体が健康なだけに、食品の管理ができない、ゴミの分別ができない、洗濯機が使えない、金銭の管理ができないといった症状が現れても、本人には自覚がないそうで。
私の母も食品の管理が怪しくなっており、下り坂に入っているのだと認めざるを得ません。
指摘しても真剣には捉えていないらしく、それもまた筆者の母親と同じものですから、やがて本書で描かれた通りになるのかと悲しくなりました。
◇
やがて来る別れに備えて、物であふれる実家の整理を始めた筆者ですが、たくさんの食器や調理器具には思い出が詰まっており、母親との喧嘩へと発展します。
要らない、使わないと分かっていても、思い返せば子供の頃にジュースを作ってくれた絞り器が、母親にとって大切なものであると理解できてしまうのです。
同じように父親の大量のスーツには、仕事を頑張ってきた記憶が1着ずつに寄り添い、思わず手が止まってしまったそうで。
私の祖父母、つまり父と母の両親もまた物を溜める人間で、亡くなって数年が経っても完全には処分し切れていません。
それらは私にとってゴミでしかありませんが、両親にとっては何かしら思い出があるのかもしれず、割り切るのに時間がかかっているのかもしれません。
◇
老いた両親にも時を遡れば若い時代があり、筆者もまた子供でした。
けれど自分が歳を重ねれば、親も同じだけ老いていくもので、決して追いつけない平行線の存在です。
その切なさが悲しみを生むのと同時に、心を温かくもするのが救いに感じられます。
筆者は子供が生まれて間もなく、母親に次のような相談をしたそうです。
すると現在の筆者と同じくらいの年齢だった母親は、次のように返したそうで。
現在までに喧嘩もしたでしょうし、美しいことばかりではないのは、きっと誰しもが同じかと。
本書で描かれるのは特別でない、わりとよくある家族の物語に過ぎないのでしょう。
だからこそ自分にも来るであろう日没を憂い、いつかの懐かしさを残光により照らすことで、緩やかな覚悟を与えてくれるように思うのでした。
なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?