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コーヒーで裁縫そしてRainbow《短歌・随筆》

寒い朝 ゆるりと注ぐ 白湯さゆの糸

いくども紡ぐ 裁縫のよう


 最近あまり短歌を詠む機会がなかったのですが、ひさしぶりに気に入ったものが出来たので。

 コーヒーを淹れるとき沸かした湯を糸のように垂らしながら、まんべんなく粉を濡らしていくのが良いとされており、その情景が糸を1つずつ縫いこむ裁縫みたいだなと。

 ヘッダー写真みたく細口のケトルを使うとやりやすく、去年あたりに新しく買ったガラス製ケトルを仕舞い、代わりに倉庫から前のを出してきました。

 ガラス製を試してみたくて交換した結果、コーヒーを淹れるのには向かないと結論づけ、4年くらい使っているものを復活させたわけです。

 中身が見えないですし一気に湯を出せないのが欠点ながら、コーヒーの粉が暴れないので雑味を減らすことができます。

 そんなことを書いている今現在、昨日の恵方巻に当たったのか腹痛で待機モードでした。

 だいぶ前に安売りしていたアーモンドを食べ、翌日ずっと寝ていたこともありまして、年に1回は食トラブルに見舞われるような。

 食べないと腹ペコなのに、食べるものに注意が必要なアレルギー持ちの方は、さぞ大変なのだろうと思ったりします。


 いま書いている話の要素として、わりと「食」が重要な位置づけになっているのですが、始めは全然そんなことを考えていませんでした。

 こんな感じの話を~という核より発生したガスが渦を巻き、やがて銀河になるみたく星を形成していく過程で、食についての要素が光り始めた感じです。

 文字の集合体ともいえる短歌や小説は、生成AIによって無数の組み合わせを経て、容易に「それっぽいもの」が作れるようになりました。

 先日に芥川賞を受賞された『東京都同情塔』の著者、九段 理江さんは生成AIから着想を得て、作中の1ページを書いたとのこと。

 また、受賞に当たってのエッセイでは「生成AIがあっても自分で書くことに意味がある」という趣旨の回答をしており、趣味で物書きをしている私も同じ考えです。

 一方の短歌では歌人の俵 万智さんが、「AIは言葉から言葉を書くけれど、人間は心から言葉を書く」と話しているのを聞き、何度も頷いていました。

 私は今の話において食を重要なものとして考えていなかったのですが、ひとまずの初稿を完成させたときには、無意識あるいは言語化できていなかったと思うようになりました。

 きっとAIに任せていたら、そうしたものに気づくことはできないまま、可もなく不可もない凡庸なものになっていたことでしょう。

 もちろん私の判断が誤っている可能性は十分すぎるほどある一方、私自身が今の話を読める形にできて、もっとも喜んでいるのは間違いありません。


 10分くらいで考えた冒頭の短歌しかり、あるいは数ヵ月かけた今の話もまたしかり、どちらにせよ意味のない言葉遊びなのかもしれません。

 それでも「何だかんだでやってきた」という自負は、分かりやすいゴールを見失った人間にとって、強く輝く1つの星になっています。

 小さな一針を集めて裁縫とするなら、繰り返し言葉にすることは糸の道標となる、小さな針を研ぐ営みなのでしょう。

 去年、詩人の石垣りんさんのエッセイ紹介文に次のようなものがありました。

 詩とは、虹を書くことではないと、作者は虹を例えとして述べる。

「虹をさし示している指、それがどうやら詩であるらしい」と。

 Rainbowをさし示す指とするのは秀逸で、悲しいほど的確な表現だと思います。

 私たちは水と光がないと虹を作れませんが、その代わりに「あれは虹だ」と名前を与え、色や情景を添えることができます。

 人によって思い描く虹は異なりますから、私もまた自分だけの虹を描ける指を大切にしたいものです。


なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?