東信吾さんの生き方
『絶対にやりたくない』と思っていた農業
―自己紹介をお願いします。
「飛騨高山で農家をしています、東信吾です。
家はずっと昔から百姓をやっていて、うちのじいちゃんか父さんくらいからほうれん草を大規模につくり始めました。
子どもの頃、親父は帰ってくるのが遅くて、泥だらけで、休みもないしお金もない。
そんな姿を見て、あまりかっこいいと思えなくて。
自分は双子の長男で、『家を継がなきゃいけないレールに乗る』ってわかったときに、『逃げ出したいな』とか、『絶対違う仕事やりたいな』という願望を持ちながら大学へ行きました。
大学は農学部だったんですが、その研修先で農業が好きになるきっかけがあって。
それが、『品種をつくるプロ』ですね。
例えば、人参とかの遺伝子を掛け合わせて種を作っていく『品種のプロ』のもとで1年間研修させていただいて、そのときにある出来事があって。
それが、冬にそこの農場長から『食べてみなさい』って言われて食べた大根がすごく甘かったんですよね。
大根って辛いと思ってたら、甘くて。
それで、それがなぜ甘いのかというのを教えてくれたんです。
凍らせないために大根が自分自身の体液を濃くして、それが糖分だから甘くなる、と。
だから、大根が甘くなるとか、パプリカが甘くなるとか、虫が付くとか、野菜が美味しく育つためにはロジックがあるんですね。
そういうことを教えてもらったときに、『農業っていうのはすごく奥が深い世界なんだな』っていうのを知ったわけです。
昔は、水と肥料と農薬をまけばできる、みたいな簡単なイメージをしてたんですけど、美味しく作ろうと思うと、もっともっと深い世界があって。
おもしろそうだな、と思ったんですよね。」
―小さい頃から「農家を継ぐ」ということは自分の意識の中にあったんですか?
「うーん。
なんか昔は、『長男は継ぐもの』って言われてて。
だから、『継げ』と直接は言われなかったけど、やっぱりそういう責任感も自分の中にありつつ、だけど、双子の弟は自分自身で自由な選択ができるわけで。
そこに嫉妬しつつ、逆に弟がいたからこそ『俺も逃げ出したい』みたいな思いがあったのかもしれないですけど。
『絶対農業やりたくない』と思っていました。
でも今は『やってよかった』と思うし、本当に『誇れる仕事』だと思っています。
野菜ひとつで全国の人と出会うことができました。」
実家に戻り、『熱が出た』
―大学生活はどんなものでしたか?
「授業はつまらなかったけど、大学生活は楽しかったですね。
つまらないと思ったのは、結局『継がなきゃいけない』という思いが心の中にあって。
大学の勉強が、『実際の農業に使えるものが少ない』と感じていたので、おもしろくなかったですね。
だけど、よかったのは、色んな人と出会えたことですね。
自分の小さな世界から、色んな人、色んな価値観にふれて、色んな殻を破っていって、自分の中でも価値観が変わっていく部分はありました。」
―大学卒業後は、すぐにご実家を継がれたんですか?
「いえ、卒業後は種をつくる種苗会社へ研修に行きました。
大学卒業してすぐには継ぎたくなかったんです。
でも、そこには全国から集まる研修生がいたり、また色んな出会いがありました。
その中で、『実家が農家』という基盤があるっていうのは大きなことだと知れましたし、やってみようかな、と覚悟は決まりました。」
「4、5年くらい前にあるシェフから電話があったんです。
『西麻布で来年レストランをするので、よかったらパプリカ送ってください』っていう。
レストランとかシェフに自分の野菜を使ってもらうっていうことが初めてで、結構ドキドキしてまして、
それで、『自分のパプリカどうだったかな?』と思って、送った後に直接そのシェフに会いに行ったんですね。
そうしたら、シェフに『自分がつくる料理は、いい素材をそのまま煮詰めたりとか、旨味を抽出する料理だから、甘みは足せるけど、雑味は消せない』と言われたんです。
『時間ある?仲間に紹介するよ』といろんなお店さんに連れてって頂きご紹介してもらえて、すごく嬉しかったんです。
深夜の帰り道、シェフと漁師さんの男臭くてカッコいい話を聞いて、『ぼくが店を出せるのはみんなのお陰だから感謝の花としてミシュランをとりたい』、なんて聞いた時は感動してました。
誰かのために野菜を作る。
そんな自分になりたいなと。
ソトガワばっかり気にしていた僕が、そういう職人の心にふれて、『本当にかっこいいってこういうことなんだな』と思いました。
そこからまた色んな出会いが広がって、畑、土とか、育ててる環境、資源、仕立て方とか全て見つめ直しました。
そのシェフが食べログゴールド取られた時は嬉しくてまた会いにいきました。
今でも背中を追っています。」
『シェフと農家の二人三脚』でお客さんに喜んでもらう
―『料理人の方へ会いに行く』のは、どういうことを意識していらっしゃるんですか?
「使ってくださる方の顔を思い浮かべながら野菜を作りたくて、誰かを喜ばせたいと自然と気持ちが入るのか美味しくなる気がして。
野菜は生き物なので正直、いい時も良くない時もあると思うんです。
美味しくなかったから使わない、とかだとの農家も育たない気がして。
僕がお付き合いさせて頂いてる料理人の方は、毎回感想を教えてくれるので、その感覚を自分の舌と照らし合わせながら、『何が良かったのか・ダメだったのか?』、また仮説を立てながら経験値を貯めていきます。
そして、自分の中に『美味しい』という基準を作っていきます。
そうやって農家も育ててもらえると、よりいいものができて、感動できるような野菜の一皿ができたとしたら、お客さんも料理人さんも生産者も含めみんな嬉しいと思うんです。
だから、料理人の方とちゃんと付き合いたいと思って会いにいきます。」
飛騨高山の伝統野菜で『世界』へ
―東さんが目指す『理想の農家像』はありますか?
「自分が憧れる方が、何かを極める変態的な人です。
職人って、本当かっこいいなと思います。
そんな方たちを目標としながら、自分らしさを追求した野菜を作り、多くの方に食べてほしいと思ってます。
食べて欲しい野菜のイメージ、例えばパプリカで言うとリンゴのようにジューシーで甘くて、雑味なくパプリカの香りも素晴らしい。
余韻が残るようなパプリカをどうつくるか。
『この野菜美味しいね!』って、大人も子供も夢中になるような野菜がつくれる人間になりたいです。
誰かの幸せをつくる仕事なので誇りに思ってます。」
―今後取り組んでみたいことはどんなことですか?
「世界で愛される日本食、飛騨高山の伝統野菜が評価される時が来たら嬉しいな、と思います。
14ヶ月かけて育てる飛騨一本葱。
親父は、大変だからと言ってやらなかったんですが、飛騨葱の名人のじいちゃんが、ある日、下呂の有名な蕎麦屋さんに連れていってくれたんです。
蕎麦を極めるそのおじさんの手挽きの蕎麦を食べたときにすごく感動しまして、その蕎麦の横にうちのじいちゃんの飛騨一本葱の天ぷらがあったんです。
びっくりするほど甘くて、とろけて。
こんなに葱って美味しくなるんだ、と。
店主が挨拶にみえて、『全国からこの葱の天ぷらを食べにお客さんがみえるんです。おじいさんのおかげです。是非とも継いでください』と言われ決心しました。
期間が長い分気も抜けず、雑草との闘い、土寄せも何度も何度もしてしろみを長くする作業はすごく大変な野菜ですが、そんな野菜が海外で評価されたらじいちゃんに胸張ってお礼が言えます。
霜が3回当たった12月の冬のご馳走、その極上のとろみと甘みをお召し上がりいただけたら嬉しいです。」
東さん、ありがとうございました!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?