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「墨香」~ ゆららさららと ~

在宅勤務生活から2ヶ月。リモートワーク前の朝の時間、この頃は気軽なお習字の稽古に充てている。

新型ウィルスのニュースにも何だか疲れてしまった。
「毎日誰かが誰かを責めている」のが辛くなったのかも知れない。

趣味で続けている「香道」には、嫌でもお習字が付いてくる。組香(くみこう)という”香り当て遊戯”のスコアシートを、筆書きしないとならないからだ。稽古熱心でない私の書は相変わらず拙い。それでも手が届くところに墨と硯は控えていてくれた。

世界が静かな戦争にある中、清浄な墨の匂いを聞きながら子供のように真剣にひらがなを書き続ける愉しさを知った。ゆっくりと墨を摺るたび、硯の丘に漆黒の艶がとろりと広がり指先の動きをを映し込む。深い森を思わせる香りがしだいに濃くなってゆく。

いろはにほへと、ちりぬるを


一文字書いては、筆を潤す。一文字書いては……。
つけっぱなしのテレビの音も、コメンテーターの声もいつしか遠くなってゆく。墨の香りが部屋を満たし、余計なものや想いを消してゆくようだ。

ゆらら さらら


気まぐれに詩歌の一節をなぞってみる。

「神ならばゆららさららと降りたまえ、
いかなる神か、もの恥(は)ぢはする」
(作者不詳「梁塵秘抄」)

神様ならゆっくりさらりと降りて来てくだいませ。恥ずかしがっておられるとは一体どんな神様でしょう。といったところか。

この国の神さんの何とおやさしいこと。 
全能でなくてもいい、今はこんな神様に降りて来て欲しい。
裁きを与えるような畏い神でなく……。

ゆらら さらら


最期に書いた一枚を、寝室のまっ白い壁に貼る。乾いて波打ち始めた半紙に浮かぶ六つの文字。その意さながら、言葉とリズムが朝の柔らかい光のなかに漂い出てゆく。

神がこの世に降りる日はまだ遠いかも知れない。ただ清らかな墨の匂いは、静かな平和をこの部屋に満たし、私の一日の始まりをひんやりと澄んだものにしてくれた。神は香りと共にそこにあった。

【連載】余白の匂い
香りを「聞く」と言い慣わす”香道”の世界に迷い込んで十余年。
日々漂う匂いの体験と思いの切れ端を綴る「はなで聞くはなし」
前回の記事: 「Vinyl」 ~ 12インチ聞香(もんこう) 〜

【著者】Ochi-kochi

抜けの良い空間と、静かにそこにある匂いを愉しむ生活者。
Photoマガジン始めました。「道草 Elegantly simple」

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