父とはきっと友達にはなれないけれど。『猫を棄てる』感想。
村上春樹著『猫を棄てる』感想文は、自然と自分と父の関係性を言葉にする試みになった。
1ヶ月以上前に書いたときにはしっくりこず、眠らせておいた文章。
いま読み返してみたら、中途半端な感じもわたしと父らしいと思った。だから公開してみる。
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わたしの父は昨年、還暦を迎えた。
同世代よりは若く見えるとは言え、しっかり歳を重ねている。
もっと若いときの父の印象がいまだに強いせいか、ソファに寝転がっている父を見て、ときどき密かに驚いてしまう。
わたしの中の父のイメージは、シュッとしていておしゃれで、洋服が好きで、車の運転が得意。(でもタバコばっかり吸っている)
そんな父は美容系の仕事をしていて、20年ほど前には雑誌やテレビに僅かながら出ることもあり、わたしにとっては子供のころから「自慢の父」だった。
しかし大人になって思うのは、わたしと父は仲こそ良いものの、性格や趣味嗜好、価値観がだいぶかけ離れているということだ。
かけ離れていることがポジティブに作用するわけでもなく、ただ「父とは趣味があわないなあ」としみじみ思う。
たとえば、父が本を読んでいるところを、生まれてこの方1回も見たことがない。誇張しているわけではなく、本当である。
出版社で働くわたしからすれば、かなり衝撃的なことだ。
そしてわたしは、美容系の話題には疎い。リモートワークになってから、髪の毛は毎日ぼさぼさである。
わたしと父が仮に学校のクラスメートだったらどうなるだろうと考えた。
結論、たぶん仲良くはならないと思う。
父よ、ごめん。
ところが父は幸いにもわたしのクラスメートではなく、父である。
そしてわたしは父のことが好きだ。
思春期に心の距離を取ったことはあったけれど、それをあからさまに態度に示すのは可哀想だと思って、なんとか我慢したのが懐かしい。
この距離感は自分でもいまだによくわからないし、きっとずっとわからないままなんだろう。でもそれでいい。
村上春樹の父は、戦争を体験した世代である。もし村上春樹の父が戦地で命を落としていたら、村上春樹も、その著作も生まれることがなかった。
同じように、もっと小さな物語ではあるけれど、わたしの父と母の出会いもたくさんの偶然が積み重なった結果だ。父が大阪でサラリーマンを辞めて東京に来なかったら。母が専門学校に入らなかったら。わたしの知らない小さな分岐点の数々。
「言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。」(96頁)
名もなき一滴であるわたしは、わたしなりのかたちで、固有の人生を生きていく。
その人生のはじまりには、必ず父と母がいたことを思う。
『猫を棄てる』では、子どもの頃の猫にまつわる記憶を橋渡し役とすることで、父と村上春樹自身との関係性や、父の生きてきた人生のとらえ直しを試みている。
わたしも猫がいる家庭で育ってきた。ただ猫を飼いたがったのは母で、父はあまり猫が好きではなかったらしい。
たしかに10年以上前の記憶では、猫が何をしていようが、あまり気に留めていなかったような気がする。
それでもいま、父は猫にでれでれだ。長く一緒に過ごすうちに、猫の魅力に気付いてしまったのであろう。
わたしと父の関係性だって、これからどうなっていくかわからない。もしかしたら、突然何かで意気投合をすることがあるかもしれない。そうなったらおもしろいな。
実は、トップにあるバラの写真。
「道端に咲いている花に癒された」という話をしたら、父が引きこもりがちのわたしに突然送ってきてくれたものだ。近所で撮影したらしい。
父がバラの写真を撮影しているところを想像したら、笑ってしまった(本人にもそう伝えた)。
昔の父だったら、花を撮ろうなんて微塵も思わなかったんじゃないかな。
『猫を棄てる』がきっかけで、初めて父のことを言葉にしてみようと思えたことも、将来の何かの伏線かもしれない。
今後、父が急に本を読むようになったりして。
楽しみにしていよう。