不眠症と夜の散歩
求めていないのに西日が強くて、それは強制的に一日が終わることを示していて、そのことを認めたくない私は少しでもと考えて西に歩いていく。
子供の足なので誤差もいいところで、街に囚われている私はどうしても建物が邪魔をする。真っ直ぐに西に向かえなくて、回り道をしている間に日が暮れる。
夕方が終わり、夜が来て、夜が更けて、朝が来て。
そのサイクルを少しでも崩すためには自分の時間を狂わすしかない。時間を狂わせて、私を私として生きていく。
一日のなかで一番好きな時間は夜なのに、夕暮れを許容できない。そこには特に矛盾めいたものは無い。何故なら一番好きな夜は、朝を想起させるから。私は朝が嫌いだから、その朝に繋がる夜は一番好きで一番嫌いだった。
私は夜歩くことを日課にしている。というよりも夕暮れから逃れるその延長で夜を歩くというだけなのだけれども。
一番好きな夜を着て、夕闇から夜闇へと紛れるように歩く。空には嫌味たらしく輝く巨大な月が見えて、それを睨みながら歩くのだ。私の脚にある傷の大半は月を睨みながら歩くせいで引き起こされた転倒でできた傷だった。
街角の古時計に目をやると、日付を超えていた。この時間まで歩くと、好きだった夜が嫌いになっていく。それでも私にとっては、夜ほど頼もしい味方もいないので、私は夜を脱げない。
一番嫌いで、一番私を知っている夜を重ね着して生きていくことしか知らない。
そこで私は眼を開く。
今までの夕暮れも、沈みゆく太陽も、私の纏う夜も、空で笑う月も、新旧入り混じる脚の傷も、日付を示す時計の針も、何もかもすべてが幻想で、今見えている景色は見知った天井で、枕からは最近使い始めたコンディショナーの匂いがして、シーツは微妙に温くて、頭は冴えきっていて、外は少し白み始めていて、でも昼夜逆転している私の意識はいま日付を超えたばっかりで、一生このまま朝を意識に留めて生きていくのではないかと恐怖して。
そのまま私は眼を閉じる。
毎回考える。思いつく結論は毎回同じで、結局は、追ってくる時間の流れは私一人の人間なんて生き物がどうこうできる問題ではないのだ。私としては私自身の中の時間を狂わせてしまうしかない。
そう考えてからこうして生きていくことを決めた。そう決めたはずなのに、幻想と現実の二つから追われるようになってしまった。
私のなかでもしっかりと時間が進んでしまっている。それは顔の脂として浮いてくるし、爪も伸びていくし、お腹も空いていくことから明らかだった。
どれだけ世界からの隔絶を望んで部屋のなかに引きこもっても、ズボラゆえに買えていない、換えていない薄いカーテンからは外の様子が伺えてしまって諦める。
内の時間と外の時間の断絶を試みたのに、私は私として進んでしまって、それはもう戻ることはないのだと突き付けてくる。それはまるで西の空からの退場を望む夕日のようでもあり、空で私をあざ笑う月のようでもある。
月。私が夜歩くときには毎回空に浮かんでいる。ここが私の想像力の限界で、私の深層心理が映し出す世界では新月という概念も曇りという現象も起きえない。
夜が好きで、嫌いなのに、その象徴である月は、欠けることなく輝いて私をあざ笑う。
私のなかでは、夜と月はセットなのだろう。
最後に現実の夜を彷徨ったのはいつだっただろうか。そのときに月は浮かんでいただろうか。二か月近く引きこもっていると何もかもが分からなくなる。最早現実と幻想の違いも認識できていない。
何を望んでこの生活に身をやつしたのかも覚えていない。いつから朝が怖いのかも分からない。
またしても夜を歩いている。東から登る太陽から逃れるように西へと歩き続ける。そこで私は気付く。
空に浮かぶ憎たらしい月があるからこそ、私は西という方角を認識している。たかが人間の、たった一人の子供の足で、と笑いながら影を創り出すあの月があるからこそ、私は朝日から逃れようともがくことができるのだ、と。
そのことに気付けたのは今回が初めてだったけれど、それでも何一つ進歩ではなかった。たかが人類にとっての偉大な一歩を刻まれてしまった月になんて何一つ助けられていない。助けられようとも思っていないし、その気持ちは変わらない。
月は私をあざ笑っていて、それでも手が届かなくて、引っぱたこうにも地球の重力に阻まれる。私が一歩を刻めるのであれば、一歩と言わず月の上で地団駄を踏んでみせるのに。
でも、そんな月も幾分近い位置に降りてきた。そこで、手が届くかも、なんて考えるほどのメルヘンさは持ち合わせていない。
ただ単に、私が歩む時間のなかで夜が終わろうとしているだけで、そんなことは振り返れば東の空が白んでいることから分かる。ただそれだけのことだった。
片目を開く。
薄いカーテンがオレンジ色に光っている。
またしても夕暮れが来てしまった。
どうやら今日は朝を乗り越えることができたらしい。
私は身体を起こす。
カーテンを開けて西日を睨む。
さっさと夜を寄越せ。
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