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それでも、親子は一生「親子」なんだよ。

母と私で、親子関係に対しての考え方が違っていて面白かったので、つい記録。


ミセス心配性

私が「実は低血圧だった」ということを知ってから、母は朝寝ている私の腕に血圧計を巻き付けて、勝手に計測するようになった。
毎回「最高血圧95!最低血圧65!今日も低いね!」と計測結果を大声で言い捨てて去っていくその姿を見れば、寝起きのダルさがあろうとこちらも笑わずにはいられない。


思えばそもそも母は根が「ミセス心配性」なのだ。
兄夫婦が喧嘩したとあらば、車で1時間かけてその家に行って仲裁役を務め、孫が車を購入したと聞きつければ、ローンや税金や保険の類の詳細を確認しに行く。
(雨ニモ負ケズ?)

ネガティブに表現すれば「過干渉」「お節介」など書き連ねられるけど、実はミセス心配性は「その子にその能力がない」場合にだけ発動する。

だからなんだかんだみんな「自分たちの母はそういう生き物」と割り切っているし、受け手も受け手で助かってはいるのだけど、やっぱり「やりすぎ感」は否めないこともたまにある。

その母と、先日「親子の関わり方」の見解の違いについて、改めて話す機会があった。



不変の事実

そもそもの話で、良くも悪くも、私は基本的に誰に対しても距離が変わらない。家族や友人だろうと初対面の相手だろうと、相手と関わる時のスタンスは全て同じように、「その関係がその関係たらしめるために努力する」という感じ。
それは単純に自分が心地よく過ごしたいという、ストレス回避のような目的もあったりする。

どうやら母には、それが意外らしかった。

「そうは言っても中には合う人、合わない人いるでしょ?」
「うーん。合う合わないとか居心地の良さは、人間的なタイプの違いだったり、一緒にいる時間の長さが違うだけ。感覚としては本当に、誰といるときでも私の心持ちは変わらない。」
「ふーーーーん。」

私が答えるも、なかなか母は納得していないようである。私は続ける。
「その感覚が変わらない分、私は親子であろうと他人であろうと、言いたいことがあったり、喧嘩したときにはその場で、ゆっくりでいいから話し合いたいの。モヤモヤした気持ちをずっと引きずりたくないし、居心地よくしたいの。」

母はさらに小難しい顔をし始めた。そしてしばらく考えてから、ゆっくりと話し始めた。

「母ちゃんはさ、子供たちが反抗期の時の経験から、向こうがシャットダウンしていたら、あえて触れないようにしてきたの。だって、喧嘩したってイライラしてたって一緒に食卓は囲むし、その時に無言だって構わない。
翌日以降なのか一週間後なのかいつでもいいけど、親子なんだから、絶対に話す機会はやって来るんだもの。」

私はさっきの母と全く同じ顔をしていたと思う。

すると続けて母が言ったのだった。
「もちろん子供たちを一人の人間として尊重するけど、母ちゃんの感覚としてはさ、それでも、親子は一生『親子』なんだよ。」
「どういうこと?」
「もちろん父ちゃんと私は夫婦である以上、夫婦たらしめる努力はするよ。だけど子供に関しては、どんなに嫌がられても親子の関係性は切れないの。その子と何回でもぶつかっていいし、離れたっていいの。」

うーん、私にはまだよく分からない。

「だからさ、どんなに子供たちが母ちゃんを突っぱねようと拒否しようと、親子である事実は変わらないし、変えようがないから。その関係である以上、無理にご機嫌を取る必要もないでしょう?
逆に、その子が困っていれば無条件で助けに行きたくもなるの。それが親子ってものじゃないかな。」


なんとなく、なんとなくだけど雑にまとめると、「親子が親子たらしめるために努力したい」のが私、「親子だからこそ無理に努力しなくていい」のが母、という感じだろうか。


別に母の考えに共感したい訳でも、私の考えを受け入れて欲しい訳でもないけれど、このとき初めて、ミセス心配性の「根源」を知ることができた気がした。

「絶対に変わりようのない関係性=親子」という事実があるからこそ、母はどんなに周りから「過干渉」や「お節介」だと言われようと、子供たちとぶつかり続けてきたのか。


親ってみんなそういうものなのだろうか。
子供を持てば、私も理解できる感覚なのだろうか。

「ふーん、面白いねえ。」
とりあえず、私の「今とことん理解し合いたい」という気持ちを汲んで、こんな面倒くさい話を、翌日以降に持ち越さずに飲みながら話してくれることに感謝した。


そろそろ「起きてから測るってば」と言おうと思っていた朝の血圧測定も、もうしばらくは寝たまま、笑わせてもらおうかなと思う今日このごろ。


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