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生きづらさに縛られる。

割とブラックな業種の社員として、それなりに長く勤めていた20代。
だんだんと辛くなって、けれどその原因もわからず職場で涙が出るようになり退職を考える。

このまま、仕事しかしていない毎日と、疲れから眠って終わるだけの休日を、延々と繰り返すのかと思うと辛くなった。
けれど辞めたその先で、私はちゃんと生きられるのだろうか。人らしく、生きられるだろうか。自信がなくて二の足を踏む。

そうこうしているうちに、親に「辞めてしまえ、今すぐ。辞めないなら私が職場に言う」とまで背中を押され(突き飛ばされ)辞めるに至った。
そうして一年、仕事から離れている。

正確にはバイトと在宅を少し、ほんの少しだけ働いているのでニートとも言い難い。半端な状態でぶら下がっている。到底収支は間に合ってないし、貯金を切り崩す生活だ。
幸い、仕事人間だったため貯金はあった。何とか税だなんだと、ごっそり支払うのにゾッとしながらも、まだ生きられている。

さて、仕事を辞めたらやりたいことを好きなだけして生きられるのだと少し考えていた。
特にしたいことも思いつかなかったが、それを見つけるためにあれこれ試す猶予になるのだと思っていた。
ゆっくりリラックスして、心身を休めたらまた、やりたいことも見つかるだろう。ネットでよく見る鬱とかの症状は、そうして治すと読んでいたから。

けれど、現実は違った。

日々目減りしていく貯金に怯え、余計な出費はするまいと何もしない一日を繰り返すようになった。そんな怠惰な自分を自分が責めた。
焦って仕事を探すと、自分にできるものなどあるのだろうかと、自信のなさが足を引っ張る。
なにより、したいことなんて「やるべきこと」すらしてない自分に、到底許されるはずがないだろうと、私が私を否定した。

私は、何もできなくなってしまった。
仕事人間が急に趣味など見つかるはずもなかった。人生のまだ8割近くが、親からの否定で埋まっている私が、自分を肯定できるはずもなかった。何がしたかったのかなんて、とうの昔に思い出せない。やりたかったこと、憧れたものなんて親の「お前には才能はないから辞めておけ」の言葉で全部塗りつぶされている。

昔は何が好きだっただろう。
思い出しても今の私は首を縦には振らない。今更、と言うのだ。今更そんなことをしてどうなる、熱量もなければ続ける意欲もどうせ無くすのだろう。成功体験の乏しさはずっと尾を引いて、失敗を助長するばかりだ。

文章を書くのは好きで、それを活かせている現状はまだ少しだけ救いだ。けれど、前を向くには到底足りない。

自分よりも年上だったり、自分より困難や課題を抱えながらも前を向いて、モチベーション高く歩き続ける人たちが眩しい。どうして前を向けるの、足を止めずに済むのと聞いてみたい。
どうして失敗を恐れずにいられるのだろう、迷惑をかけることを恐れずに、いられるのだろう。

私の肩を押さえつけるのは昔の母だ。
お前は本当に何もしない、できない、出来損ないだと言われた。今もその言葉は刺さって抜けない。言った張本人なんか、とうに忘れているだろうし、それこそ今更文句を言ったって「お前が悪かったんでしょう?」と突き放される。

母に悪気があるわけではないのだ。
問題は、悪気もなくそんなことをやってのける親だったということだ。
私より自由に生きて見える、兄弟ですら母は怖かったと言うのだ。今、私より背も低くなってしまった母だが、それでも私の心は怯え切っている。

何をどうすれば、この恐怖症から救われるのか。それはどうせ、自分の中にしか道はない。それは、わかっている。
けれどそれが問題なのだ。

服を買いに行く服がない、と言った感じが近い。回復するため気力がないので、回復に良いとされる散歩ができない。眠れない。食事が億劫になる。何もできない自分を、肯定できない。

生きていくためにあまりに致命的なダメージを負って、歩けないでいるのに、病院まで歩いてくださいなと言われている気分なのだ。
そして歩けない私の傷は誰にも見えないので、怠惰に見えてしまうらしい。当然、母にも。

私自身、傷見えなければもしかすると癒えているのかもしれない。ずっと痛かったことだけを覚えているから、怖くて動けないだけかもしれない。
けれど、私が立ち上がれないことで、誰も困る人がいなければこのまま、力尽きる方が賢明な気がしている。

生きづらさに、縛られている。

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