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短篇小説「遁走者の顛末」(約5700字)

 初めに、雲があった。

 二年前の夏、眠りから覚醒したような、或いは天から不本意に産み落とされたような感覚を味わいながら、俺は茫洋と真上を向き、曇天の中少し目立つ白い雲を阿呆面で眺めていた。そうこうしている内に唯一の白い雲が消え、空が突然号泣するかのように雨が降ってきて、それでも微動だにできなかった俺の腕を初老の男性が掴んで『何しとるんじゃ! 風邪引くで!』と言いながら車に乗せてくれた。
 それが俺の、今の俺の、一番古い記憶。

「今日も精が出るねぇ、若い人は」
 そう声を掛けられたので、俺は農具を置いて振り返る。
「田所さんこそ。まだ残暑は厳しいから、無理しないでくださいね」
「はっはっは、七氏ななしさんには言われとうないなぁ」
 俺は心からの笑顔を浮かべ、農作業に戻った。二年も経つと、案外慣れてくるものだ。この集落の人たちは俺のことを「七氏さん」と呼ぶ。それに不満はない。何故ならそれは真実だからだ。

 俺は気づいたら、ここにいた。

 鳥取県と岡山県の県境、中国山脈の標高五〇〇メートル地点にある小さな集落。俺はその入り口の橋を渡った道路の真ん中に突っ立っているところを林田さんに保護された。
 わけが分からなかった。というのも、その時点で俺に中国山脈の何たらという知識はなかったし、何よりも、自分が何という名前で、何歳で、どこで生まれどこで育ったか、家族は、職業は、といった記憶がまるでなかったからだ。そんな俺を、ここの人たちは不審者とも思わず、記憶がないことも信じてくれて、警察などに相談してくれた。
 つまり、俺が何者なのかを。

 しかし結果は、何も、なかった。

 全国規模で調べてもらっても、俺の容姿や言葉のイントネーション等から、捜索願が提出されている可能性は極めて低い、と断言されてしまったのだ。

 でも、集落——実原村みはらむらの人々は絶望する俺に良くしてくれて、俺が、見た目で判断すると三十代半ばの健康な男性であることから、『農作業を手伝ってくれるなら』という条件付きで、集落の一番奥の空き家に居住権を与えてくれたのだ。
 俺に選択肢は無かった。俺は死にたくない。死なないためには、何らかを食べなければならない。食べるためには、労働をしなければならない。
 小学生でも分かるこのシンプルな事実を、今俺はここでこなしている。二年以上になるのか、そろそろ。
 
 
 この集落を囲む山々は、自然がとても美しい。携帯電話やインターネットの普及の為に鉄塔などが建てられるまでは、天然記念物のオオサンショウウオも生息していて、俺も何度か、水がきれいな場所にしか生息しないサワガニを目撃したことがある。

 だが、いくらネットやスマホが重要とはいえ、この美しい山々に鉄塔を建てていくのは、その必要性と利便性は理解していても、「もったいない」以外の言葉でしか言い表せなかった。
 源泉から一キロも離れていない、水が透き通る冷たい川、日が落ちた後の完璧な闇、高級な絨毯のような田園、それらに俺は完全に惚れ込んでしまった。
 夏場にはオニヤンマやギンヤンマが当たり前のように窓から入ってきて共に踊り、マムシや猪、鹿、そしてツキノワグマまで生息するこの集落で、『七氏さん』として生き続けるのも悪くはない、という思いが日に日に強まっていった。
 最初は凶暴な動物や毒を含む植物などに怯えていたが、今はそれらが愛おしくて仕方がない。先週も檻に猪がかかっていたので処分の手伝い——と言ってもほぼ見学だったが——に行った時も、猪の大きさ、何にでも喰らいつきそうなカーブを描く牙に感動すらした。
 だから、あくまでも推測だけど、本当の俺は、都会住まいだったのかもしれない。


 もちろん、集落の人々に迷惑を掛けたくなかったし、自分でも『記憶が無い』という恐怖と、『自分は何者なのか?』という疑念は常にあった。俺が発する言葉は、ほぼほぼ標準語で、一度村の中でも良い意味でお節介なおばちゃんがそういった検査を受けさせてくれたのだけれど、『推定』という前提付きで、おそらく関東、東京で言語を覚えたのではないか、くらいの情報を得た。
 東京なんて、コンクリートの塊で人工的な光が嘘っぽく常燈している、人間の密集地帯じゃないか。この実原村での生活を約二年体感した上で、東京というセメントの匂いしかしない場所に戻っても充実した生活が送れるか、甚だ疑問だ。
 
 
 ここ実原集落には、若い住民が少ない。
 そもそも国レベルで子供が減っている時代に、ここで育った子供達も、大阪や京都、東京に出て行ってしまうらしい。俺が来てからも、四人の若い子達が、大学進学と就職のためにここを去ってしまった。

 しかし最近、徐々にではあるが過疎化の勢いがおさまりつつある。この集落の若者達が結婚したりして子供を自然の中で育てたいと言って戻ってきたり、元々山育ちだった若者達が、リモートワークがフルタイムで可能となった今、ここでシェアハウスを始めたり、都会に疲れた会社員等が家族でこの集落に引っ越してきたりするようになったのだ。
 だから、「七氏さん」こと俺も、もはやニューカマーではなく、鎌やなたをどう使うか、多忙な田植えの時期に何をするか、といったことを指導する立場になっていた。


「何だか信じられないねぇ、ここに来た時は痩せとって、もやしみたいじゃった七氏さんが、今は日焼けして筋肉もついて、この子達のお手本になるやなんて、光陰何ちゃらじゃわ」
 冷えたほうじ茶をこちらに置きながら感慨深く言ったのは、京本きょうもとのおばあちゃんだった。俺の住まいである空き家を提供してくれた、いわば『大家さん』であり、恩人だ。
「んだけど、ええんかい? あたしらみたいな年寄りはともかく、七氏さんくらい若かったら、家族やええ相手もおったんかもしれんのに、随分長うここにおるけど——」
「それは、警察で誰も俺を探していないと分かった時から、なんと言うか、諦めたことですよ。僕が思うに僕は東京にいたと思うんですけど、ここでは集落の皆さんが僕を仲間として受け入れてくださって、農業のイロハを叩き込んでくださって。自分でも、ここの方が、僕自身を求められているように感じるんです。それはおそらく、東京では得難いものじゃないかと考えてます」
 俺が少し口角を上げると、京本のおばあちゃんは、一瞬遠くを見て、ちいさな溜め息をひとつこぼし、立ち上がった。御年九十一歳だが、足腰はまだまだ現役だ。
「縁起でもない話じゃけど、死ぬるまでここにおってもええ、ゆうて今ほんまに思っとるんか? 七氏さんくらいの年じゃったら、今からでも充分人生やり直せる。まあ、分かっとって言うとるんやろうけど」
 京本のおばあちゃんはゆっくりと壁際の仏壇の方に足を進め、右隣にある木製の棚の前で腰を下ろした。俺はちょっとだけ違和感を覚えたが、それは俺のことを心配してくれているからだろうと判断した。
「まあ、そうですね。もしかしたら何かご縁があってここを離れる可能性はあるかもしれませんが、記憶の無い僕の原点は、林田さんが見つけてくれたあの橋の手前、つまりここなんです。おこがましいですが、ここが故郷と言ってもいいくらいだと思ってます」
 その時初めて、京本のおばあちゃんはこちらを振り返り、常々思っていることを正直に伝えた俺の眼を垂れたまぶたの合間からじっと見詰め、軽く息を吐いた。

「実はなぁ、あんたがここに来はって、林田さんが声を掛けるまでなぁ、あんた、あたしらには分からん機械、持っとったんよ」

 初めて聞く話だった。
 何か首筋に違和感があると思ったら、うなじに鳥肌が立っていた。
「京本さん、何故それを今まで——」
「あたしらもな、考えたんよ、七氏さんが現れはって、ここにおってもらうか、警察に任せるか。じゃけど、この機械だけは、こんな田舎にはあらへんし、何よりここの誰にも、使い方も用途も分からんかった。じゃけん、黙っとった。皆でな。ここに居てもろうて、仕事も手伝うてもろて感謝しとるけどな、あんたがずっとこの集落に留まる言いだしたら、見せることにしとった」
 京本さんはそう語りながら、仏壇の隣の引き出しの低い部分を引っ張り出し、さらにその奥に腕を突っ込んだ。俺が呆気にとられていると、おばあちゃんは無表情のまま農作業で鍛えられた腕で漆黒の、生地の分厚い巾着袋を取り出した。

「これ、なんじゃけど。こないに小さい機械は、ここのもんには分からん。でも警察に言うんもなんや心配じゃったんよ。七氏さん、これ、なんじゃろか?」

 動悸が、心拍の音が耳の奥から聞こえていた。おばあちゃんは、巾着を開け、そっと、まるでたんぽぽの綿毛を風から守るかのような面持ちで中身を俺の前に置いた。
 
——あ。
 
 脳に、微量の電流が流れたような気がした。
 実際俺はこの集落で軽く感電した経験があるが、今はその電力が頭にだけ集中し、一瞬叫び出したいほどの痛みを感知したが、次の瞬間、俺はこう言っていた。
「これは——、MDというものです。今の若い子は知りませんが、僕の世代は、音楽なんかをこれに録音していました。それでこっち、この一回り大きいやつ、これがプレイヤ、実際に音を再生するもので……」
 京本のおばあちゃんは驚いた様子で言った。
「なんや、じゃったら、こん中に入っとるんは音楽か」
 拍子抜けしたおばあちゃんの言葉が鼓膜を叩いた次の瞬間、俺はある可能性に気づきパッと顔を上げた。
「京本さん! コンセント貸してください!」
「ええけど……。どしたん、急に血相変えて」
 俺は、頭が半分混乱しながらも、残りの半分が恐ろしい速度で回転している様子を自ら俯瞰していた。
「MDには、音楽以外のものも録音できるんです。音、出しても良いですか?」
 おばあちゃんが俺の剣幕に圧倒された様子でこくこくと頷いたので、俺はMDプレイヤを農作業の時に音楽を流すスピーカーに繋ぎ、再生ボタンを押そうとした。

 何が出てくるか分からない。単に俺がここに来た頃の流行歌かもしれない。

 だが、俺には何故だか根拠のない確信があった。
 この中に、全てがあると。
 震える指で、再生ボタンを押す。ほんの数秒雑音が入っていたが、続いたのは男性のこんな語りだった。
 
『こんにちは。ぼくは「解離性障害」という精神疾患を患っている者で、二〇二〇年現在、おそらく二十八歳です。「おそらく』と言わざるを得ないのは、解離性障害の症状のひとつに「解離性健忘」という記憶障害があり、今自分で思い出せないからです。また、別の症状に「解離性遁走(とんそう)」、別名「フーグ」というものがあります。意識の無い状態で、それでも交通機関を通常通り使って、数時間から数日、個人差はありますが、「遁走」してしまうことがあります。稀に、本来の自分のことを思い出せないまま、記憶の無い状態で生活する例もあるそうです。ぼくの名前ですが、「村崎むらさき飛鳥あすか」というものだと、知人が調べてくれました。もしぼくを発見してくださった方が居れば、今から言う電話番号にご連絡いただくか、今から言う場所に、なるべく早く向かわせてください。電話番号は——』
 
「あ、あんたぁ、これは……」
 京本のおばあちゃんも流石に驚いたようで、目を丸くしていた。
「精神、疾患? 村崎飛鳥……?」
 何の実感も、記憶が蘇ることもなかった。電話番号は〇三から始まっていたので東京都で確定、また指定された場所も都内のビルにある一室のものだった。
「俺は——」
「七氏さん」
 気づかぬ内に落涙していた俺に、京本のおばあちゃんはこう声を掛けてくれた。
「あたしは、あんたのしたいようにしたらええと思うで。集落の人間全員が、『七氏』なんて呼んで、こないに長い間おってくれた。それだけで、あれや、一期一会じゃ。二年ゆうたらあたしらにとっては短う感じるけど、あんたの年齢やったら長いじゃろ。安心しぃ。あんたの住まいは残しとくし、また帰ってきてもええ。あんたはもうこの実原集落の一員じゃけんな」
 
 
 翌日の早朝、俺は誰にも挨拶せずに実原を後にし、新幹線で東京へと向かった。電話をしてもよかったのだが、俺は指定された場所の人間と対面で全てを聞きたいと思った。
 新幹線の車窓から見える山々や緑が段々と変化し、それはまるで俺の二年間と実原の集落を文字通り切り離されていくような感覚を俺に与えた。

 指定された場所は、池袋駅西口からすぐ近くの、かなり大きなオフィスビルの四階だった。
 岡山の山奥で二年ほど過ごし、人混みになど一切出なかった自分が、この東京の異常な人間の数に圧倒されないことに驚く。やはり俺は東京出身なのだろうか? そんなことを考えながらエレベーターに乗り込み、必死で緊張と不安を掻き消す。何やら四階は俺の知らない「コワーキング・スペース」なる施設で、『marvelousマーヴェラス』という名称だった。

 ここに、本当の俺、村崎飛鳥を知る人間がいるのだ。

 エレベーターを降り、広いフロアで少々迷った後、ガラス製の重いドアを開ける。そこには若者が多くいて、銘々にパソコンやその他の電子機器を持っていた。スマホをタップしているビジネスマン風の男性、見たことのない小さなゲーム機で遊んでいる若い女性、タブレットとにらめっこをしながら勉強している学生風の男子も居た。
——ここは、どういった目的の空間なんだ?
 大きな疑問符を頭の上に浮かべていたら、奥の方にいた女性達三名が俺を見て声を挙げた。あたかもそれが合図だったかのように、他にも囁くような声が続いた。

——あれさぁ、昔ここにいた村崎くんじゃない?
——記憶喪失の人でしょ? なんか体型変わっててウケる
——そもそも『村崎飛鳥』って名前もトオルくん達が勝手に……

 さざ波のような声たちは驚きの連続で、俺の耳には正確に届かなかった。 
 誰かに自分のことを聞いてみようと一歩前に出た瞬間、若い金髪の男が俺の顔を覗き込み、邪気のない笑顔を浮かべた。
「おおっ! 村崎ちゃん久しぶり! 本当の自分、誰か分かった?」

【了】


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灰崎凛音
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