どこにでもいる人間の半生6
退院後は私たち家族の住む平屋で、半年ほど姉夫婦と同居をした。
姉は懸命にリハビリに励み生きてくれた。
義理兄は姉を懸命に支え続けてくれた。
旦那や子ども達もまたそこに自然と加わってくれたのは、当たり前に思っていたが、感謝しなければならない。
姉は、生きる希望が尽きかけていた。
そんな中、当時生後半年くらいだっただろうか、三男の存在が輝いて見えたと言っていた。
なんて生気に満ち溢れているのかと。
生活を省みずに何人も子どもを産む事に理解が出来なかったけれど、あなたはこのパワーを知っていたんだね、というような事を姉は言った。
私が選んで子ども達を生み育ててきた事が、思ってもいないところで姉の活力になり、肯定して貰えたのは嬉しかった。
同居から半年、もちろん全てが円満に運んだわけではなかったし、お互いに生活環境が違う、ましてや旦那同士は他人であるし、ストレスは極限まできていたのかもしれない。
私たちは戸建てへ、姉夫婦はアパートに引っ越した。
今考えると、最後までしっかりサポートしてあげられなかった事を、後悔している。
私は姉夫婦と住み出してからか、化粧品会社の事務員として短時間ではあったが仕事をはじめていた。
事務仕事になかなか苦戦しながらも、人や環境に恵まれて、うつ病になるこの33歳まで働かせて頂いていた。
私自信メイクは好きであったし、活気に溢れ、子どもを保育園に預けながら、外では仕事で刺激を貰える。
充実していたと思う。
私は早くに子どもを産んだ為、あまりお洒落なレストランや美味しいご飯屋さん、見栄えの良いカフェや、バーなど、そういった場所に疎かった。
そういった場所でランチをしたり、打ち上げをしたりする事もあり、そういう楽しさも仕事を通して教わった。
仕事は事務員一人で商品管理や金銭管理、給料計算など、責任は大きかったが、それもまた私を必要としてもらえていると感じるとやりがいに満ちていた。
それから31歳で、まさかの四男を妊娠した。
予定外の想定外、避妊はしていたはずであったがそれも100%ではない事は知っていたとは言え、こんな事があるだろうかと驚きを隠しきれなかった。
想定外にしても、やはり私は産む選択をした。
幸いデスクワークであった為、臨月まで迷惑をかけながらではあるが、快く働かせて貰えた。
そして育児休暇としておよそ1年間は自宅での給料計算のみで仕事は継続させてくれた。
職場やスタッフの皆さんには感謝しかなかったが、迷惑をかけている事がとても申し訳なかった。
しかし、自分が選んだ道である。
時間が過ぎゆく中、私のメンタルは気づかぬうちに徐々に不安定になっていった。
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