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短編 氷の上に咲く花の中に住んでいる人達の話


氷の上に咲く花の中に、住んでいる人達と出会った。
それは、ある冬のことだった。
春には海を渡ろうと思って、旅の足を早めていた。炭鉱の街の酒場で、湖を渡るといい、と港から出稼ぎに来た男に教わった。船があるのか?、と尋ねると、そうではない、と言う。行ってみれば分かる、行ってみるといい、旅の人ならきっと気に入る。無精髭に発泡酒の泡をたっぷりつけて、男は笑った。朝日に照らされた湖を見ながら、私はあの時の発泡酒の泡を思い出している。
凍った湖の上に、白くてふわふわの丸いものが浮かんでいた。雲のような、泡のようなシルエット。それが朝の光を受けて、オレンジ色に輝いていた。吐く息が白い。吹く風に耳たぶが千切れそうなほど痛くなって、毛糸の帽子をぎゅっと引っ張った。雪が降らない日しかまともに動けない冬は、私のような徒歩の旅人には辛すぎる。
凍った湖に足を踏み入れた。割れるのではないかとヒヤヒヤしながら、転ばないよう、慎重に歩く。私は南の生まれだ。灼熱に焼かれた砂浜を火傷せずに歩く方法は知っていても、氷の上の歩き方は知らない。ゆっくり、歩く。白いふわふわには、なかなか辿り着かない。それが遠くから見えるということは、かなり大きなものであるということだろう。


白いふわふわの元に着く頃には、湖の上に人が集まっていた。どこからともなく人が現れたので、最初はかなり驚いたが、やがて彼らが、あの白いふわふわから出てきたのだと分かった。彼らは氷の上に鉄のテーブルのようなものを設置して、その上で火を起こし、煮炊きをしている。
私が近づいていくと、手を振って歓迎してくれた。とても親切な人達で、朝ご飯をご馳走してくれる。それは何かの乳で芋のようなものを煮た料理だった。甘くも塩辛くもないのだが、強烈な香草の匂いがする。夏の間だけ採れる香草を乾燥させ、粉末状にし、あらゆる料理に入れるのだという。最初は辟易したが、何口か食べると急に体が熱を持ち始め、匙を動かす手が止まらなくなった。親切な人達は、みんな同じ模様の、同じ動物から採れる毛皮の服と帽子を着けていた。必死になって食べる私を、ニコニコしながら眺めている。氷の上に咲く花について、教えてくれたのは食事の後だ。
彼らの中で一番年をとっていそうな男性と女性が、白いふわふわの一つに私を案内した。目の前で見ると、それは白い石のように見えた。ブツブツと細かな穴が表面を覆っている。日が当たったところはキラキラと光っており、固い材質のように見えた。しかし触ってみると、へこっ、と、あまりにも簡単にへこんでしまう。私が情けない声を上げると、案内の老人も老婆も笑った。白い石のように見えるのは、花びらだという。それが何枚も重なって、大きな壁のようになっている。白いふわふわは、一つ一つがとても大きい。高さは三階建ての建物ぐらい、面積はベッドが二つ置ける部屋六つ分くらいだ。
花びらの一部に、木の板が挿し込まれているところがあった。その板を老人が脇に押しやるようにすると、花びらが割れて、中に入ることができた。中に通された瞬間、私は目を覆った。眩しい。まだ夜が明けたばかりの薄曇りの空の下から、急激に光が満たされた場所へ。目が慣れてからよく見ると、床が光っていた。光る床は、指一本分くらいの長さの黄色の毛のようなもので覆われている。絨毯かと思ったが、老人に促されて触ってみると、それは植物だった。瑞々しい、生きているものの感触。触った手の平に、白い粉のようなものがついた。これは、花粉だ。なら、この黄色い絨毯のようなものは、巨大な花の雄蕊なんだろうか。
花の中は、発光する雄蕊によって明るく照らされ、また、花びらが冷たい空気を寄せ付けないのか、外より暖かい。私は首に巻いたマフラーを解いた。鼻で息を吸い込むと、かすかに甘い匂いがする。中は間仕切りなどなく、中心に黒いテントが一つ張られている。老婆が、静かに、と口に指を当てながら、テントの中を見せてくれた。そこには、子供達が眠っていた。薄暗い中で、十数人の子供達が、寝袋に入って芋虫のように丸まっている。老婆が静かにテントの幕を閉じた。
ここでは十一歳までの子供が、一つの花の中に集まって、冬の殆どを寝て過ごす。空腹や排出のためだけに時々起きて、当番の大人が一日中食事などの世話をしてくれる花の中に行き、用が済んだら眠る。大人は当番制で働き、当番の仕事がない時は、子供達と同じように眠って過ごす。貴重な食糧の消費を抑えるために、そうしているのだという。
子供達がいる花から出ると、大人が眠るための花や家畜のための花、食糧を置いておくための花などに案内して貰った。どの花も中心だけ雄蕊の発光が弱く、そこに黒いテントが張ってある。テントの中は、昼でも夜のように薄暗い。大人も子供も、皆丸まって安らかな寝息をたてていた。


案内が終わって朝来た場所に戻ってくると、煮炊きの支度はすでに片づけられ、人は殆どいなくなっていた。老人と老婆は、これから大人用の花の中で眠るという。あなたもどうですか?、と誘われたが丁寧に断った。私は当番の大人達が、食事の番や狩りの道具の手入れなどをしている花の中で過ごした。そこで行商の人々が来る日を確認し、彼らの橇に乗せて貰う算段をたてた。あとは旅の話をしたり、ここでの生活や周辺の治安などについて話を交わした。
彼らは冬の間だけ、この氷の上に咲く花の中で過ごすという。どんな住居よりも、この花の中が暖かで、安全なのだ。大きな花が怖いのか、獣も寄ってこないという。夏の間は、私がやってきたのとは反対側の岸にある森の中で、狩猟採集と畑仕事をしながら暮らす。この湖を渡ったら、彼らの集落に行き当たるだろうかと尋ねたら、それがないんですよ、と困ったように微笑まれた。木を組んで作る彼らの家は、冬の始めに毎年吹く大風によって、大破してしまうらしい。大風が来る前に湖に移り、春が来たら氷が溶ける前に森に戻って、また一から家も畑も作り直す。私は感心と同時に、途方もない労力に目眩がして、長い息を吐いた。彼らは、冬が一番好きだという。花の中で夢を見ていられるから。
春になり、氷が溶けると、花も萎む。夏になると、湖底から生える樹木が透明な水の中に見えるらしい。氷が溶ける前に急いで湖を離れ、集落に戻れば仕事に追われる。花が萎んでいく姿を見に行く暇がある者はいない。また、湖底から生える樹木が邪魔をするので、夏の間、行商の人々が船で湖を渡ることはないらしい。
話をしていると、子供が一人、花の中に入ってきた。五、六歳ぐらいの女の子で、赤い帽子に赤いマントをつけている。小さな子供には、万が一はぐれてしまった時見つけやすいように、派手な色のものを着せるそうだ。女の子が赤で、男の子が黄色。森の中で採れる木の根っこで服を染めるという。女の子はまだ半分眠っているかのように、よたよたと歩いていた。頼りない足取りで、食事が入った鍋のそばに置かれた敷物の上に辿り着くと、ごろんと横になる。道具の手入れをしていた女性の一人が立ち上がり、女の子のところに行く。女性はさっき私が食べたのと同じものを鍋から椀によそい、匙で掬って女の子に食べさせてやる。女の子は女性の肩に凭れて、ただ口だけを動かしていた。
赤ん坊のようでしょう?、と私の隣にいた男性がクスクス笑う。勿論、普段はあの子も自分で食べますよ。でも、冬の間はずっと眠っていますから、自分で食べることができないんです。自分で食べられるようになるまで頭を働かせてしまったら、再び眠るのが大変になってしまいますからね。
私は、なるほど、と頷いた。布団の中で一瞬目を覚ましても、そのままうとうとしていたら、またすぐに寝入ってしまう。しかし、一旦起きて活動を始めてしまうと、布団に戻ってもなかなか寝付けない。
旅をしていると、眠る時は疲れ切って朝まで熟睡してしまうので、そういうことは殆どないのだが、故郷の家にいる時は眠ろうとしても眠れないことがよくあった。家は、浜辺のすぐ近くにあった。夜中、喉の渇きで目覚め、台所で水を飲んでしまうと、ベッドに戻ってもなかなか寝付けなかった。どうしても眠れない時は、海に行った。冷たい砂浜の上に腰を下ろして、ただ、波の音を聞く。そうして気が済めば家に戻り、気が済まなければ水平線が明るくなるのをいつまでも待っていた。
そんな思い出話をその場にいる人達に話してしまってから、私はふっと気づいた。この人達は海を知っているのだろうか。皆さんは海を見たことがありますか?、と問うと、皆、微笑みながら首を横に振る。そして一人が、見たことはないのですが、知っています、と言った。そこがどんなに広くて、眩しくて、暖かいのか、よく知っています、と。みんなが彼の言葉に頷いていた。
私がどう言ったものか戸惑っていると、隣にいた男性が、夢を見るんですよ、と語りかけてきた。子供の頃、この花の中で眠ると、必ず海の夢を見るんです。誰も本物の海を見たことがある者はいません。でも、誰もが子供の頃、夢の中で必ず海に行く。そこで魚を釣ったり、貝殻を拾ったり、泳いだり、木に登って果物を食べたり、夕日を見たりするんです。
人々は、そうだそうだと言い合って、座はにわかに騒がしくなった。子供の頃見た夢について、皆、思い思いのことを語った。砂で作った動物の像、塩辛い海の味、浜辺に咲く花で作った首飾り、夕べに吹く冷たい風。すると、女の子にご飯を食べさせていた女性が、そっと手を叩いて、口に指を当てる仕草をした。食事を終えた女の子は、女性の膝に頭をのせて眠っていた。大人達は互いに目を見合わせ、はにかむように笑った。私の隣にいた男性が立ち上がり、女の子を抱えて、花の外に出て行く。あの子はあの人の娘なのだ、と近くにいる人が教えてくれた。


数日後、私は行商の人達と共に、馬が引く橇に乗って湖を後にした。
それまでは、集落の人達から狩りの道具の作り方を教わったり、花の中で飼っている家畜の乳を搾るのを手伝ったりして過ごした。しかしそれは一日のほんの一部分で、殆どは花の中にあるテントで眠っていた。花の中では驚くほどよく眠れたが、海の夢は見られなかった。
食事は最初から最後まで、芋を乳で煮て香草で強烈な香りをつけたものが出た。食事は朝だけで、昼と夜は何もない。殆ど眠っているせいか空腹にはならなかった。しかし、最終日に突然、何かが耐えられないような気分になり、携帯している干し肉と砂糖菓子を、我慢できずに食べてしまった。一人で食べているわけにもいかないので、集落の人々にも分ける。彼らの習慣として受け入れられないのではないかと不安だったが、意外なことに、みんな嬉しそうに食べてくれた。特に砂糖菓子は、今年初めて子供用のテントから出たという少女が、今までこんなおいしいものは食べたことがない、と言って喜んでくれた。
食事と寝床のお礼として、私は残った砂糖菓子と燐寸の箱をいくつか渡した。燐寸は、以前、路銀を稼ぐために働いた店で貰ったものだ。箱には店の電話番号が書かれている。この店を世界中の人達に教えてやってくれ、と言って、そこの女主人がたくさん分けてくれたのだ。しかし燐寸の箱を喜んでくれるのは、電話の通っていない場所に暮らしている人達ばかりである。
物々交換は、結局行わなかった。最初は、炭鉱の街で手に入れた水晶と引き換えに、この大きな花の花びらを少しでも分けて貰おうと思ったのだ。丈夫なのに柔らかく、熱を通しにくい。しかも白くて光る表面は、なかなか美しかった。ほんの少し、欠けらだけでも、役に立つ、路銀になると思ったのだ。しかし、それは無理だ、と困ったような顔をして断られた。この花びらは縦に裂くことはできるが、横に裂くことはどうやってもできない。行商の人々が鋭い刃物や特別な機械で挑戦したが、どんなにやってもできなかったという。これだけの長さのものだと、旅の荷物としては持ち運べない。
私は泣く泣く諦めたが、もっと泣きたいのはこの人達だろう。この花が資源として使えたら、どんなに楽に暮らせるだろうか。そう考えてから、私はその考えを急いで打ち消した。打ち消しながら、この花の種はないのですか、と尋ねていた。案の定、また困ったような顔をされてしまう。
この花は、この湖の中にある木からしか咲かないのです。そして、全て花は雄花です。雌花のようなものは見たことがありません。絶滅してしまったのか、あるいは雄花と雌花がまったく違う形をしていて気づかないだけなのか、この湖にあるものがたまたま突然変異しただけなのか。
この花の中で何十年冬を越してきた人々も、この花がどんなものであるかは、まったく分かっていないのだという。


氷の湖を抜けて、彼らの集落があったであろう森を抜け、その先の街で降ろして貰った。本当はそこからすぐ港に旅立つつもりだったのだが、渡る予定だった橋が大風で壊れたということが分かり、復旧まで待つことになった。仕方なく、昼はその街にある織物の工場で働き、夜は宿泊している宿屋の酒場で掃除や給仕をした。そうこうしている内に、春の始め頃、橋の工事が終わった。すぐにでも出ていくつもりだったが、宿屋の主人に、娘が出産を終えるまで働いてくれとせがまれて、結局、港の街に着いたのは、夏の盛りになってしまった。
雲一つない青空と、その空の色を映して輝く海。砂浜には水着を着た人々が寝転がって、肌を小麦色に焼いている。果物の汁と氷を混ぜ合わせた冷たい飲み物を、通りがかった露店で買った。干上がった喉が潤い、果物の甘さに、歩き疲れた体から力が抜けてゆく。露店の前だというのに、思わずしゃがみ込んでしまって、慌てて立ち上がった。私は愛想笑いを浮かべて、この辺りで工芸品などを扱っている店はないだろうか?、と店の主人に尋ねた。赤茶色に日焼けした肌に真っ白な髪をした店主は、ぶっきらぼうな口調で、岬にある宝飾店を教えてくれた。私はお礼を言って、足早に立ち去った。
岬に近づくにつれ、だんだんと風が強く、涼しく吹いてくる。昔は灯台だったという宝飾店は、青い空と海によく映える白い塔だった。白い塔の周りには、塔と同じ色の真っ白な花がたくさん咲いていた。手の平に収まるぐらいのサイズで、何枚も花びらが重なったふわふわした花だ。
店に入ると、若い男女が店主であろう男と話をしていた。私はしばらく、ガラスケースに入った商品を眺めながら待つことにした。そうしていると、彼らの話が耳に入ってくる。若いカップルは結婚指輪を作りにきたようだった。私の前にあるガラスケースにも、貝殻で作ったアクセサリーやブローチの他に、指輪のようなものがいくつか収められている。その指輪は、今まで見たことのないものだった。木だろうか、貝だろうか、動物の骨だろうか。金属ではないもので作られた、真っ白な指輪だった。まるで乾いたスポンジのように、表面には細かな穴が浮いている。
やがて、カップルが笑い合いながら店を出て行った。白い指輪について店主に尋ねると、ガラスケースの中から一つ取り出して見せてくれる。自然光に当てると、まるで氷の粒が埋め込まれているように、表面を覆う細かな穴から、キラキラと光が零れた。
美しいでしょう?、と店主はうっとりとした声で話した。この街でしか採れない貴重な花の種から作られるんです。一つの花の種から、丁度二つ分の指輪を作ることができるので、この街で生まれた男女はこれを結婚の証とします。
そう言って店主は、額に入った鉛筆画を取り出してきた。それは指輪を作る工程を描いたものだった。丸い種の中身を掻き出して、球の直径にあたるリング状の部分を切り出す工程が描かれている。鉛筆画を指し示す店主の日に焼けた指には、真っ白な指輪が光っていた。
これが街の名産品なのかと尋ねると、残念ながら、と店主は肩を竦める。この花が種をつけるのは十年に一回、あるかないかぐらいで、街の人がつける分ぐらいしか採れないのだという。また、とても加工しにくい材質のものなので、宝飾品としては向かないらしい。種の表面は縦のラインでしか刃物が入らず、細かく切ったり、彫刻を入れたりすることができない。その決して切れないという点が、何があっても別れない夫婦の絆を意味するとして、縁起がいいとも言われているそうだ。
花というのは、この店の周りに咲いている白い花のことである。話が途切れると、店主が私を店の外まで見送りながら、説明してくれた。父親から店を受け継いで十年近く経つが、一度も種が実ったことはないという。花の苗自体は冬を越すので、何もしなくても毎年咲く。店主は、一度でいいから種がついたところが見てみたい、と苦笑いしていた。笑いながら、旅の思い出に、と言って、彼は一輪、私のために花を切ってくれた。


その日の宿に選んだのは、一階が食堂になっている浜辺の近くの宿屋だった。窓から海が見える部屋にいると、故郷のことを思い出す。部屋に置いてあるグラスに水を満たして、昼間貰った花を飾った。戯れに、たくさんある花びらの一つをつまむ。ふんわりと白い花びらは少し力を入れると、縦には簡単に裂けるのに、逆の向きに力を入れても全然破けない。
力を抜いてふっと息を吐くと、トントン、と部屋のドアが叩かれた。ドアを開けると、五、六歳くらいの真っ赤な服を着た女の子が立っていた。お夕食の支度ができあがりました、と言って、ちょこんと頭を下げる。首に掛けた花の首飾りが揺れる。今行くよ、と言って、私はチップ代わりに小さな砂糖菓子を彼女の手に握らせた。女の子ははにかむように微笑んで、もう一度お辞儀をすると、廊下を小走りに駆けていった。

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