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妹を野に放つ

妹を野に放った。

実際には野ではなく街だけれど。わたしと同じ育成環境、つまり小学校中学年頃から地方都市の集合マンションで生きてきた女の子を、わたしの住む街に放った。わたしとカフェで昼食を食べたあと、妹はヒトカラに行きたいと言って地下のカラオケに放たれた。好きな時に帰ってきていいし、ご飯も食べてきても、家に帰ってからでもいい。好きにしていいと妹には伝えてある。それから19時半になろうとする今まで、妹の姿を見ていないまま、この文章を書いている。

わたしの妹は優れた人間だ。まず、わたしよりも生活能力と衛生観念が卓越している。毎日洗濯をすることや(わたしは一週間溜める)(ただし畳むのはめんどくさいそうだ)下げた食器を洗うといった、生活に於いて必要な行為が苦にならない人間だ。秩序や規則性に対する抵抗感もなく、むしろ彼女はそこにこだわりを持つことができる。特に本棚整理の能力は目を見張るものがある。本のサイズ、ジャンル、出版社、作者などを全て判別した上で規則正しく並べる。彼女の部屋の本棚を見て几帳面だとは知っていたが、引越しの際彼女に本の整理を頼んで驚いたものだ。他人の本棚まで見事に整列させるというのは、十分商売にしてもいいレベルだと思う。(ちなみに、現状のわたしの本棚の惨状を見て絶望していた。)

その分、わたしが比較的苦なくしていること——文章や絵で自己表現をすることには人一倍苦労をする。一度、就活のエントリーシートが書けないと言って添削をしたことがあった。文章を論理的にするためのピースが所々外れていることに加えて、自己を見つめることから逃避しているような文章だった。わたしが考えすぎて鬱になるのと対照的だ。「何も考えないのは得意」と彼女自身も言っていた。「風呂って嫌なんだよね。頭洗ってる間とかに色んなこと思い出しちゃって鬱になる」わたしがとりとめのないアイデアをこぼさないように躍起になる時間である。

わたしが大学で上京したのに対し、彼女は実家から通える大学を選んだ。つまり、あの父と母の「子」のまま、二十数年間を過ごしたということになる。

わたしたちの親の呪縛がいかに強力か、わたしは離れたからこそ理解できた。

父はわたしたちを「世間知らず」と認識し、何かと世話を焼いてくる。母は暗い空気を嫌い、一人で落ち込みたい時に極めて明るく装って接してくる。二人とも、きっとわたしたちを愛しているのだ。わたしたちのためを思っての態度であり、世話である。でもその結果、彼らの子供が直面したのは、「陰鬱な自己をないがしろにされた」という自己否定感であった。父からは「世間ではもっと苦しいことがあるからお前たちの苦悩は浅いのだ」と、母からは「そんな暗い顔してるより笑いましょう」と。

一度、彼女と死について話したことがある。わたしが「点になるイメージ」と伝えたのに対して、彼女はそんなに考える素振りを見せることもなく「わたしは石ころになって削られてくイメージ」と答えた。流されて流されて、だんだん表層が削られて砂になり、風化して、最終的には何もなくなる。そんな答えがさらりと出てきたことが驚きだったし、似たもの同士だ、と思った。両親の教育の反動のように、わたしたちは陰鬱に寄っていくらしかった。

そんな彼女と、一昨日から同居している。誘ったのはわたしだった。鬱で落ち込んでいるであろうわたしの顔を見ておきたいのだろう、週末に家族が車でこちらに来ると言い出したのがきっかけだった。わたしはそれを承諾したあと、妹に電話を代わるように頼んだ。「こっち来るならいっそ一週間くらい泊まっていけば」というわたしの誘いに、彼女は電話越しに「考えとく」と素っ気なく答えた。ちょうどバイトも大学もないのなら、親を離れて——「子」をやめる経験をしたらいい、と思った。そして実際に、彼女はロフトの下半分を自分の領域として、この部屋に住み始めた。

あの何もない地方都市で、「子」をやめるのは難しい。何をするにも車がいる。車の運転も得意でない人間がふらりと外出したところで、徒歩圏内には老いぼれた市民プラザや彼女のバイト先の酒屋。本屋とレンタルDVD店が一緒になったところに行こうとすると自転車圏内か。公園に行けば小学生がボール遊び。電車に乗って街に出ても、どうせ同世代が遊ぶ街なんて同じなのだ。中高時代の知り合いに出会う可能性は都会の比ではない。かと言って最寄りの大都市・名古屋に電車で出るのはそこそこ費用がかかる。その結果、外出するのは車で親に付き添う「子」としてイオンモールに行くか、家に引きこもってネットの海に潜るかの生活。「子」ではなく、ただの20代女性として——「個」としての居場所を地方都市で見出すのは、至難の技なのだ。

「栄でさ、一人でさ、ちょっと小さい路地とか入ってみたんだよね。なんかいい感じのお店とかないかなって。でも結局どこにも入らずに帰ってきた。だいたい居酒屋か、エッチな店しかないんだもん」街を歩きながら、不意に彼女がそう言った。「親」連れの「子」じゃなくて、「個」としての居場所を、彼女も探しているのかもしれない、と思う。

幸い、この街には「個」の居場所が溢れている。週末しかやっていない謎の花屋。爬虫類と触れ合えるカフェ。凝ったデザインの白シャツばかり置く古着屋。哲学と文学を愛する店主の古本屋。彼女という「個」にぴったりの居場所は、この街にあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それでもこの街は、それを探すことができる。それだけの、多様性と自由が許されている街だ。だから、野に放った。そして彼女も、そうしたかった。

野に放たれた妹は、20時過ぎに帰ってきた。地方では自転車漕がないと難しいヒトカラが余程楽しかったらしい。フリータイムで19時過ぎまで歌って外に出ると、どの店も閉店準備をしているところで入れなかったそうだ。わたしがお願いしていたトイレットペーパーと卵ボーロを買って、ケラケラと満足した笑顔で帰ってきた。わかるよ、ヒトカラの後って、なんか笑顔になるよね。野に放たれた経験談を期待していたわたしとしてはちょっと拍子抜けだったけれど、狭い箱で誰の目も気にせずに一人で歌うということも、彼女を「個」にするために必要なことなんだろう。

「明日も外行こっかな」引きこもりを愛する彼女にしては珍しい発言だった。風呂を面倒くさいし嫌だと言いながらも、早めに入ろっかなと零している。

明日も彼女は野に旅立つだろう。今日は昼食だけ一緒に取りに出かけてしまったけれど、わたしは今度こそ、彼女を完全に放つつもりだ。

そして彼女が、都会の野はらでどう過ごすのか。土産話を、楽しみに待つことにしよう。


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