顔写真をみていると「怪物」が出現! ~ 性格と姿勢の人間論
20代前半ぐらいまでは、「自分は何者?」、「何をしたらいいの?」などに悩むのが普通ではないだろうか。
私の場合も、自分という存在に全く納得できていなかったので、他人にどう見られているか気になるし、自分をよく見せようと無駄な努力もしたりと、他者に対しては過度の反発と称賛、自分に対しては根拠なき自負と自虐的な劣等感の連続だった。
そういう80年代の青年期に、ふと買った本が、別冊宝島シリーズ(ジック出版局)の一冊「性格の本」で、その中でも、きわめて異質で衝撃的であったのは、「顔写真をみて感じたままに」という記事だった。
顔写真をみて感じたままに
「ソンディ・テスト~衝動と運命の分析」と副題の付いた、秋下達久氏の文章(1977年初版)の冒頭を一部引用:
何よりもこのテストの際立った「異様さ」は、その顔写真!!
テストの手順として、8人の顔写真が載って一組に成っているものが合計6組あり、それぞれの組から最も好きな顔一枚と、最も嫌いな顔一枚を選ぶようになっており、合計48枚の顔を見なければならず、次のような「顔」ばかり:
正直、ほとんどの「顔」がどこか異様な表情に見えるので、好ましい顔を探しにくい。それでも無理して選び出し、分析結果の項を読むと、たとえばこんな風に記してある:
コワイ、でも参考にしてもよい
どの項目を読んでも、勇気づけてくれるような「ほめことば」は皆無で、否定的で解釈が難しい分析内容になっている。ちなみに私は何度か試したが、好ましい「顔」が選びにくいためなのか、似たような結果になった。友人たちにも試してもらったが、あまりに否定的な分析内容に怒ってしまった人もいた。自分が自覚しているはずもなかった、心の奥の「怪物」を白日の下に曝け出されてしまったかのように・・。
ネットで検索をかけると賛否両論のようだが、このテストは、被験者の心の奥にいきなり強いライトを当ててくる点では「コワイ」と感じた。だが、自分でもつかみにくい心の奥の衝動的な側面をこのように指摘されることは無意味ではなく、むしろ、謙虚に耳を傾けて自己分析の参考にしてもよいのではと思った。
性格はからだにあらわれ、声にあらわれる
この「性格の本」には、ユング派心理学の研究者としても著名であった故秋山さと子氏の興味深い記事もあるが、ここでは、「自分に出会うということ~姿勢と性格覚え書」という、竹内敏晴氏の記事を紹介しておきたい。
竹内氏はもう亡くなられているが、人の発することばとからだの動きとのつながりに注目した演劇的ワークショップ「竹内レッスン」でもご活躍されていた方である。私自身、当時、この記事を読んで氏の考え方に強く影響を受け、「ことばが劈(ひら)かれるとき」などの著作も読んでみた。
先に述べたフロイト派心理学のような西洋的認識論のソンディとはまた全く別のアプローチによる「人間論」ではないかと思われ、私には竹内身体論のほうがずっとなじみやすい。
ここで記事より、2つのエピソードの一部を抜粋引用して紹介:
青いサングラスの少女
ある女子学生の悩み:
他人からは親切だ、いい人だと評価されるが、本人からすると、へつらってばかりいる臆病な自分なのであって、それは本当の自分じゃないと感じている。いったい自分はどこにいるのか? これは彼女にとって、抜け出すことのできない蟻地獄のような苦しみだった。
私は彼女を観察し、彼女の姿を真似してみた。・・・他人が働きかけてきたらとりあえずいい顔しようと気を張りつめる、口元をいつでも開けれるようにややほころばせにして、目は視点を定めずに大きく開きっぱなし、そういう他人向けの顔を前の空間に置いておいて、そのうしろにそっと自分のからだを隠すように置く、つまり、猫背になっている。
ここまでで私に言えることは、性格というものは、行為としてあらわれる前に、姿勢にあらわれている。この意味で姿勢とは、立つ、座るなどの外形のことではなく、主体が世界の内で他者にふれつつ存在する、その在りかた自体だということ。
私はふと思いついて、彼女にサングラスをかけてみたらどうかと提案しました。彼女はたまたま近くにいた友人の掛けていたサングラスを借りて掛けてみました。とたんに、「ひとのカオが見える!」と彼女は叫んだのです。他人には言わなかったが、彼女は他人の顔を見ることができなかったのだそうです。それで、彼女の視点の不安定さも理解できる。
彼女はその後しばらくサングラスをかけていましたが、数ヵ月後にはずしました。彼女は変わったのでした。「少しわがままが言えるようになった。」という言い方を彼女はしました。性格は、変わったといえるでしょう。
「変わる」とは、別のものになることではなくて、自分を見つける、自分に出会うということ。
話しかけのレッスン
ある学校で話しかけレッスンを行う:
自由に座り、うしろから誰かを選んで話しかける。自分に話かけられたと思ったら手を挙げる。これが基本の単純なレッスンだが、人が人にほんとうに話かけることがいかに少ないかに否応なしに気づかされる仕組みです。
その場に、学校でも家でもその子の笑い顔を見た人がいないという女の子がいましたが、このレッスンを通じて人からほんとうに話しかけられたという体験をし、その後、彼女は笑顔を見せて話すようになったとのこと。
性格というか、その人の生きている感覚なり、行為のパターンなりが変わるという時には、からだつきも顔つきも変わるし、声も変わるし、つまり、その人の存在の仕方そのものが変わってしまう。なんかどっかだけが変わるということはない。
最後に
以上、ソンディ・テストと竹内氏に関して少し述べたが、20代の時に強い衝撃や影響力のあったこの「性格の本」のことを、ほんとにひさしぶりに思い起こすことになったきっかけは、一体何だったのだろう。
あまりに思いがけなく突然パッと、あのテストの「奇妙な顔たち」を思い浮かべたからだ、と言う以外に適当な理由が思いつかない。
そして、「人間とは何か」と問うならば、最新の大脳生理学や先端科学理論の成果などではなく、その奇妙な顔たちに触発されて、自分にとって忘れられない「あのひと」や、嫌だった「あいつ」のことがまっ先に脳裏に浮かび上がってきたからではないだろうか?
またしばしば、そういう顔や表情というものは、相手を誤解させたり裏切ったりもするものである。だったら、顔や表情だけでなく、皮膚や身体的特徴等、人間の外観一切を気にせずに、その人そのものに接したい、と願うなら、やはり、魂やら量子の領域に分け入ってゆかねばならないのだろうか?