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霊とか遺体とか孤独死とか ~ 生や死や死後のことのあれこれ

とても長い前置き:

この記事タイトルは、TVドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」にちなんでいます。
ここ数年の深夜帯TVドラマの中では特筆すべき秀作。原作はジェーン・スー。娘を吉田羊、父親を國村隼が演じています。親子の心の葛藤を主軸に平凡な日常のエピソードを丹念に積み重ねて味わい深く描いた「大人のドラマ」で、劇中に流れる歌も印象深い。もちろん、演じた二人の俳優の存在なしではここまで成功した仕上がりにはならなかったでしょう。

しかしながら、以下に書きます私の記事は、そのドラマ内容とは全く関連ありません。記事タイトル通り、人によっては不愉快で怖いと感じる描写が含まれていますので、そういう話が苦手な方、嫌な方は決して読まれないように強くご注意申しあげておきます。

ただ、私としては、興味本位の煽情的な記事を書いたつもりは全くありません。あくまで自分個人の体験をきっかけに、人間の生と死、そして死後についてクソ真面目にあれこれと考えを巡らしたつもりですが、迷走しただけのような「迷想記」になっているかもしれません。


以下、本文の始まりです

ワタシの霊(?)体験


知らない女性の顔

小学生の時、よく遊んでいた近所の友たちの家で、2階から階段を下りているときに、目の前にパッと、「知らない女性の顔」が浮かんで消えました。
それからまもなく、電話の音が鳴り響き、その友だちの祖母が亡くなられたということでした。友だちにそのことを言うと、「本人が知らせに来てたのかな」と彼は答え、次にこう付け加えたのです、「それ、自分が見たかったな」。

スッと現れ消えた老女

大学の夏休み、田舎の友だちの古い木造2階建ての実家に泊りがけで遊びに行きました。お客様扱いで6畳ほどの和室に一人寝ていると、スッと何か白い着物をまとった老女が現れ、私のふとんの周りを浮遊するように2度ほど回って、ストンと足元に倒れて消えてしまいました。「えっ?」と思って、足元をのぞくと何もなく、それから眠れませんでした。
朝を迎え、そのことを友人に話すとイやな顔をされました。なぜなら、彼のおばあちゃんは生きていて別の部屋で寝ていたからです。・・そして、それから数日後のことです、・・彼から聞かされました、祖母が亡くなったということを。

女の声

大学生の時の下宿での話です。電気をつけたままうたた寝をしてしまいました。ふと目が覚めると、金縛りにあったようになって体を動かせない状態になり、どうしようと思っていたら、女性の声が耳元で聞こえてきました・・、

「善を成しても死すれば同じ、悪を成しても死すれば同じ」

と聞こえました、・・やがて金縛り状態は解けましたが、その不思議なコトバは覚えていて、後日、このことを友人に話すと、笑いながら、こう言われました、「お前さァ、早く彼女をつくった方がいいヨォ」


以上は、「納涼怪談」のようなもので、霊の存在を信じない人には、脳の機能によるただの幻聴幻覚で済まされることでしょう。また、お断りしておきますが、私には、いわゆる「霊感」やら「オーラが見える」ような、そんな特殊能力は全くないです。「霊」に関わるこのような話はむしろ、よく聞かされる体験談に過ぎないと思っています。
ですが、「よく聞く話」だからこそ、注目すべき「何か」があることは確かであり、無視できないと考えています。


霊の正体とは、記憶を編集加工してイメージを創り出す脳なのでは?

脳内に蓄積されている記憶の膨大な像から、その人の置かれた状況に応じて脳が恣意的に編集加工したイメージを見せられているだけなのに、実際に「見た、聞いた」と勘違いしているだけだ、という学説もあります。

たとえば、「天国」・「幽霊」の視覚的イメージは、西洋人と日本人とでは大きく異なっており、その原因として、宗教、習俗、生活習慣、教育、天候風土などの違いが大きく作用していると考えられます。

このことをもっと違う視点から言うと、一般に私たちの知覚は、既視既聴のものしか知覚できにくいのではと思います。胎内にいるときから誕生そして死ぬまで、われわれ人間は、この地球上で目にし耳にしたものを相互に意味付けしては統合して存在させてゆく脳の思考回路を働かせながら生きていると思います。

しかし、これを突き詰めると、「存在する」と脳が認知したものしか存在しないことになりかねません。
やはり、人間の有している認知能力だけでは見たり聴いたり考えたりすることができないものも存在しているのではないか、という「謙虚な公平性」は持っておきたいです。

と同時に、大脳生理学やら認知精神分析学などの科学的アプローチに敬意を払いつつ、それらとは全く別分野としての、霊能力とかスピリチュアルカンセリングとか言われる特異な能力を有する方々の声にも耳を傾けたいです。

次は、ホントに「目撃」した実話

*以下は、「人身事故の遺体」に関わる赤裸々な描写がありますので、怖くて不快な感情を引き起こすかもしれません。気になる方は読まないことを強くおすすめします。

3度遭遇した電車人身事故

東京での20代前半の学生時代には、2年間のあいだに3度、電車による人身事故のまさに直後の状態を偶然に目撃したことがあります。コワいなどのレベルではなく、悲惨で痛ましい出来事です。

1度目は京王線・各駅停車駅で;

昼前ごろ、大学の講義に出るため、通学で利用する電車ホームに入ると、片隅に、白い布をかぶせて置かれた立体状の大きな物が目に入りました。そばを通り過ぎるとき、端から赤茶色の棒切れのような物が見え、それは、人間の四肢の一部なのだと確信しました。やがて来た電車に乗りましたが、しばらくはその残像が浮かんでは消え、人間というものは、かくも変わり果てた姿になってしまうのだ、と、切なく痛ましい思いにとらわれました。

2度目は小田急線・急行停車駅で;

朝のラッシュアワー時に、ホームで停車したままの通勤快速電車の下側を駅員数人が慌ただしくのぞきながら何か探してる姿を、対向ホームで目撃しました。何列目からの車両の下から、何か袋状に見える大きな物体を引き出しているのが判りました。その時、思いました・・・袋状に見えた物体は、おそらく、押しつぶされて平面状になった人間なのだと・・。その印象は、まさに「物体」なのであり、よく馴染んでいる、生きて動く「人間」ではありませんでした。

3度目も小田急線・特急停車駅で;

午後のある日、踏切で電車通過を待っていた時のことです。目の前を電車が通過した直後に、突然、女性の金切り声が聞こえました。対向の右手、遮断機前で女性が泣き叫んでおり、すぐそばには、何らの理由で電車に体が触れてしまったであろう人を駅員数人で持ち上げている姿が見えました。
その「顔」が目に入りました・・・お葬式やらドラマなどで目にする「死顔」とは明らかに違っていました・・・鼻の部分がサッと消えて、表情が無くなったかのような「表面体」で、体はすっかり脱力し切っていました・・・その後、自分が踏切を渡ったかどうかはもう覚えていません。


数年後に、たまたま読んだスピリチュアル・カウンセラーの本では、心身の状態が良くない時ほど事故に遭ったり事故現場を目撃したりしやすい、と書いてありました。つまり、「波長が合う」・「引き寄せ合う」という法則が当てはまるわけで、この場合は好ましくない合い方ということでしょう・・。
そう言われればそうかな、と頷く面は確かにあります、しかし、「悩める青春期」の真っただ中ですから、心身の状態が能天気なまでに「良好」のはずはないのです。


肉体は「人間とは何か」の答えにならない

今こうして、当時の事故の様子を克明に思い返すわけは、強烈な衝撃であったことはもちろんですが、人間の「肉体」を覆う表面としての皮膚、衣装、
形姿などの不定形さ、可塑性、実体の希薄さ、要するに、肉体そのものの脆さが事故により曝け出されてしまい、では、「人間とは何か?」と問うたときに、肉体では答えにならないと、感じたからだと思うのです。


人は、いずれ、どういう「遺体」になるのでしょう


私だけでなく、人は皆、いつか、それぞれの「死」を迎え、それぞれの「遺体」となることに抗うことはできません。それには選択権はまず無いと思います。
上記に述べた電車人身事故は偶然に遭遇した全く知らない方々でしたが、私が直接に立ち会った、あるいは伝聞で知った、親族・知人・友人等の「死」もありました。
たとえば、「自宅で老衰死」を迎えた親族を2人知っています。その方々は、前日までお元気で、朝には布団の中で亡くなっておられたとのことです。自宅で就寝中・入浴中・庭仕事の最中などの「突然死」そして「自殺」の方を、高齢者から20代まで5人、伝え聞きました。大学時代、20歳の友人はバイク事故で亡くなったことを伝え聞きました。


以上に述べた人たち以外はすべて、何らかの病気に罹り、最後は病院で亡くなっておられます。そういう人たちは、「突然の死」ではなく、家族・知人等に看取られながらの「ゆるやかな死」です。「遺体」はすぐ、看護師によって清められ、手厚い処置を施され、葬儀場の手配まで迅速に行われます。

孤独死のNHKキュメント番組

以前、NHKで「孤独死を超えて」というドキュメントが放送されていました。取材対象は、死後に時間が経過している独り生活者の部屋を整理清掃する業者でした。

NHKのHPから番組紹介記事を引用します;

孤独死は身寄りのない老人だけの世界ではない。子供の独立を機に互いの自由を求めた熟年離婚の末の孤独死。定年まで勤め上げた女性一人の
悠々自適の生活を襲った突然の死。小島美羽さんは特殊清掃と遺品整理を続けて7年。さまざまな現場に出会い、詳細をミニチュアに制作し訴えてきた。
孤独死は不幸ではない。故人と遺族に残る意外な心のつながり。小島さんの視点を通し、多様化する現代の孤独死に、生きることの本質を見つめる。

この小島さんという若い女性業者の特異な点は、現場を再現したようなミニチュア模型を製作していることです。招かれた講演会場などに展示し、それを見てもらうことで、普通はほとんどの人の目に触れることのない「孤独な死」の現場の実状を知ってもらい、何かを感じてもらえれば、ということのようです。

以下に、ネット記事で見つけた、彼女の言葉を引用します;

実際にリアルな現場の写真を見せるのは簡単なのですが、やはり本物というところで目を背けられたり、気分を害されてしまう方もいらっしゃるんです。つまり余計に“壁”を感じてしまう。でも孤独死は実は誰にでも起こりうる。ではどうしたらそれを表現できるか。そのときに思いついたのがミニチュアなんです。

小島さんの父親は、別居直後に孤独死寸前の状態で幸いにも見つかり、最後は病院で息を引き取ることができました。その後、孤独死の現場にかかわる仕事のことが気になり始め、悪徳業者に騙された遺族の話も知って、遺族を経験した自分ならもっと遺族の気持ちに寄り添ったことができるという思いから、現在の遺品整理の仕事に就いた、とのことです。


孤独死とは⇒看取りのないまま独り死んでいること

「孤独死」と聞くと、独り暮らしの高齢者をすぐ思い浮かべますが、このNHK番組ではまだ50~60代で「独り暮らし」を選んでいる人たちも取り上げていました。彼らは、それぞれの事情を乗り越える覚悟で独り暮らしの人生を選び、そのひとつの結果として、「看取りのない死」を迎えた方々でした。
長期間ずっと放置されたままの遺体と部屋は、視覚や嗅覚には凄惨なものですので、遺族には精神面や金銭面でも大変な負担を強いるものでしょう。
最近では、地方自治体の見守り制度や、民間企業の見守りサービス、スマホなどの情報機器による見守りアプリなども開発され、孤独死に対する予防策が立てられ始められており、今後、社会全体に拡がっていくことが期待されています。

ネット記事をいろいろと検索していると、大阪府の事例レポートが目に留まりました;

2019年、大阪府警の検視調査課が府内で調査しています。・・その結果、大阪府内で2019年には2996人が孤独死で、うち70歳以上が53.4%でした。
残りのほぼ半数は、高齢者の孤独死を見守る地方自治体のシステムの対象から漏れた、70歳以下の現役世代の急病死、自殺、事故死などの死因によるものでした。


現在、大阪府の人口は883万人、年間死亡者数が9万人規模、年間自殺者1200人程度です。遺体放置死者数は、年間死亡者数の3.3%、うち70歳以上の高齢者はその半分です。多分、全国的にみても、大阪府と同じような比率かと考えられます。

このレポートの最後には、以下のような予測がなされています;

孤独死を見守る地方自治体の見守り対象にはなっていない、70歳以下の現役世代の急病死、自殺、事故死などの死因による長期放置死がこれから増えていくであろう。「孤独死」は、もはや、高齢者だけの特有の死の形ではなく、世代を超えた社会問題になってゆくであろう、ということです。


孤独は、寂しいのですか


ただ、私はこういう風にも想うのです、

「孤独死」は、身寄りなく独りぼっちで寂しく死んでしまう・・といイメージで語られがちですが、それは少し違うのではと思うのです。
確かに、結果としての「長期放置死」は残された人々には多大の迷惑をかけるであろうことは明白です。でも、「孤独に生きる」ことと、「看取りなく独りで死んでしまう」こととは、その志向と価値が違うので切り離して考えるべきだと思います。

言い換えると、「日々の生活の基本として、孤独を糧とし、孤独を愉楽として生きる」人々がこの世には少なからず存在していると、私は考えているのです。私自身、その志向があるのでなおさらそう思うのです。そのような生活は、独りぼっちで寂しい生活ではないのです。
一方、いつも友人知人に囲まれてワイワイ騒ぎたい、そうでなければ人生は虚しい、・・といったライフスタイルを好む人々もおられます。
どちらの生き方も、その人にとっては正解なのです。


話をまとめます

人生最後に必ず迎える「死ぬ」時に、誰にも迷惑をかけない死に方ができる人はこの世にほとんどいないでしょう。だったら、長期放置死だけでなく、
自然死、老衰死、突然死、殺害死、事故死、病死、行方不明死、・・など、どんな死に方を迎えようが、看取りがあろうがあるまいが、その日が来るまでは、自分が求め、自分が納得のできる生き方をすることこそ、一番大事ではないかな、と私は思うのです。

「霊体験」の話で人間の認知能力の限界のことに触れ、「人身事故」では人間の肉体の脆さに触れましたが、それには理由があって、以下のことを、
現段階でのひとつの結論として述べたかったからなのです;

私個人は、物質としての肉体が朽ちた後も、その人の本質である「核」の部分は、何らかの形でこの宇宙のどこかに存在し続けている、と信じています。それが、最新の現代科学が示す「量子」という物理量の最小単位という形であれ、何かもっと宗教的な解釈にある「魂」という形であれ・・。

だから、個としての肉体の「死」のあとにも宇宙的な拡がりとしての「生命あるいは魂」、 “  soul or spirit  ” が在り続ける、と信じるならば、孤独死をそう恐れることはないのでは、と。


部屋とシャツと光
a room ,  a shirt,  and light
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