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“ どこでもアート ” ではない ART を求めて ~ ワタシノ想フ宇宙

あなたはどんなアートを求めていますか

私は、2011年より2017年まで( コロナ禍で中断 )、8つの県にある11の公立美術館で個展を開催してきました。
ですから私には、作り手側としてのアート観があります。と同時に、アートについて何かを語る際には、作り手だけでなく受け手側にとっても大事なことがあると考えています。
それは、「あなたにとってアートとは何ですか、どんなアートを求めているのですか」を、その人なりにつかんでおくことだと思うのです。


そういうわけで、以下に、私が求めているアートについて述べます; 


令和 NIPPON のアートは“ どこでもアート ”

私が青年期だった90年代半ばまでは、まだ「芸術」というコトバが、企業の宣伝デザインや商業イラストとは明確に区別して使われていた時代でした。

しかしながら、令和5年を迎えた現在、ここニッポンは、「どこでもアート」状態となり、さらには、SDGsやLGBTQに対応した取り組みを企図する行政や企業によって、「アート思考」なるコンセプトが重宝され、その趣向に合ったアーティストたちが積極的に登用されています。

スポーツ、エンタメ、グルメなどの業界でも、「これは、もうアートですよ!」と、レポーターたちによってアートというコトバが多用され、美術館での展覧会も含めた美術業界では、人と社会の関係性をアートを通じて学ばせる企画展や学習会が盛況であり( コロナ禍で一時中断 )、市民の啓蒙だけでなく、集客・収益につなげたいという目論見も散見されます。

アートは、「アートっぽい」とはちょっと違う

ふと街角を歩いてみれば、企業広告から美容室、カフェ、雑貨屋まで、「アート」や「Art」という装飾的文字がよく目につきます。それは、外国語本来の字義通りのARTではなく、ちょっとオシャレでクールな空間を演出してくれる物なら何でも「アートっぽい」と発する今の風潮によるものだと私は感じています。

ですが、そもそもアート=ART といわれる長い芸術史の中で、20世紀以降、私が実際に具体的に目にしたアートと呼べるものは、主に絵画、文学、演劇、映画、音楽による「作品」を通してです。次に、自然造形や工芸作品、建築物などにもアートを感じる場合がありますが、グルメ料理に対して「これはもうアートだ」という褒め言葉を述べる習慣は少なくとも私にはありません。

アート=ART は、本来、社会貢献や有用性にはなじまないもの

要するに、アートといわれるものが、狭いアート業界を超えて、経済波及効果を最終目標とする実社会に参加・貢献すべきものとして多方面で戦略的に
活用されている、と、私は感じます。

ですが、「私の求めるアート」とは、そんな社会的な貢献や、実利的な有用性などといった活用のされ方には本来なじまないものである、と考えているのです。
たとえば、アートに特に興味がなくても、どこかで聞いたり目にしたことがあるゴッホ、草間彌生、奈良智美などの人気アーティストたちの作品があります。それらは作家独自の内的動機から創作が始まったのであり、集客・宣伝用に戦略的に活用して企業側の収益に結びつけようとして創作が始まったのではない、ということです。その点が、有能なクリエイティブ・デザイナーなどの創り出す商業プロダクツとの、似て非なる決定的な相違です。


好きな曲を自分でも歌いたいように、自分が求めるアートは自分でも創りたい

私は、アート史研究者でもキュレーターでも、ギャラリー経営者でもありません。自分のことをアーティスト(=画家の意味)とも考えていませんし、
そうなりたいとも思っていないのです。
ただ、この世に生を受け、思春期に突然のごとく「芸術」というものに目覚め、古今東西の名画を鑑賞するだけでなく、「自分が見たい世界を自分でも創りたい」と、思うようになっただけなのです。サティが好きだから、自分でも弾いてみたい、というのと同じ動機なのです。
もちろん、創作しないと生きてゆけない、というほど自分を追い込むような切実さは抱えていませんが・・。


この記事を通じて、私が最も主張したいことを、以下に述べます


私が求めるアート=私が創りたいアートは、以下の三つの条件が重なったものです:

・日常の枠をひと時でも超えさせてくれるような磁力を放つもの

・「精神の開放」と「魂の救済」が、理性や論理を超えた感覚や感情を通して直截に感じられるもの

・論理的に言語化されるレベルのコンセプトだけで終わらないもの( ← この点は特に重要! )

この点に関し、補足:
たとえば、「この作品は現代消費社会の虚妄と皮相を曖昧な輪郭線と色彩の中に描き込まれている・・・」と、批評家が分析し、作家本人もそれに同意、観客はそういうもんかな、と妙な納得を強いられる、・・・そのような状況は望ましいとはいえない、ということです。


上の三つの条件は、やや抽象的な言い方になっていますが、ズバリ、情緒的に表現すれば;

・恐ろしいほど美しいもの

・圧倒されるほど激しいもの

・死ぬほど静かなもの

そういう経験をあたえてくれるものが、私の求めるアートであり、私の創りたいアート:“ ワタシノ想フ宇宙 ”なのです。


アートは、他者や社会とつながることが最終目的ではない

そもそもアートというものは、宗教的な信念や思想的なイデオロギーではないのです。アートは、必ずしも他者や社会とつながらなくてもよいものであり、それを強いられるようなものでもないはずです。まずは、あくまで個人体験として自らの中にしっかり受け止めることが先決のはずです。

真にすぐれたアートならば、論理的に言語化できるレベルを遥かに凌駕して「自分という存在を粉々に粉砕するほど強烈なもの」あるいは「至高の法悦をもたらしてくれるもの」であるかもしれないのです。

そういうアートは、どこにでもあるアートではないのですが、きっとどこかにあるアートなんだと思います。

留意:
ここで私が言うアートは、狭義の「美術作品」のことだけでなく、詩や小説、映像、演劇、音楽等すべての表現活動も含めています。


参考までに、私が求めるアート:その具体例をいくつか

まず、私が今まで出会った全てのアート作品の中で

best1:
旧ソビエトの映画監督アンドレイ・タルコフスキーの映像作品「鏡」

the images of Mirror     created by rilusky E   
dedicated to Andrei Tarkovsky

写真では:
アメリカの写真家ジェリー・ユルズマン( フィルムカメラによる暗室での多重露光と合成の作品 )の一連の合成加工作品

Jerry Uelsmann


音楽なら:
武満徹の映画音楽、とりわけ「切腹」・「怪談」の音響効果:今日の digital sound 以前の、創意工夫の録音とテープ変調によるサウンド(ミュジーク・コンクレート)の凄さ!

小林正樹監督「怪談」


そして文学は:
20世紀の詩人であるライナー・マリア・リルケ

Rainer Maria Rilke



20世紀の平面絵画なら、すぐに固有名詞を挙げられるのはダリ、クレー、李 禹煥などですが、21世紀の立体造形等の作品では群雄割拠の様相なので、実際に見たことがあるものだけから選ぶと、たとえば、次のような作家たちになります;

スコープ作家・桑原弘明の作品

桑原弘明

小さな金属製の箱の丸窓から内部をのぞくと見事な超ミニチュア光景が見えます。細部まで精緻に創り上げられたこの極少オブジェ内部を眺めることは、単なる好奇心や覗き趣味を超えた、「新しい現実体験」に近い高揚感があります。


立体造形作家・宮永愛子の作品

宮永愛子

初めて見たとき、この地上に、こんな儚く美しい造形作品を創るひとがいたことに新鮮なショックを受けるとともに、自分の力のなさを痛感させられました。

立体造形作家・ジェームス・タレルの作品

James Turrell

スペース・アートとも呼ばれ、とにかく、宇宙からも遠望されそうな、気宇壮大な造形物の壮麗さには圧倒されます。



そして、私の作品「天と地の騒乱」の中の一枚 ( 序詞付き ): 

Celestial and terrestrial confusion 
created by Rilusky E 
2015


天と地の騒乱

私は見た 
大地が回転して空をくつがえし
海が飛び跳ねて川を舞い上がらせ
すべてが黄金の砂となってゆくのを

そしてその時 
私には聞こえた
たった一粒のしずくが 
星雲の彼方へと
数千億の反響をとどろかせながら
流れ落ちてゆく・・・
その音が聞こえたのだ