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フットボール讃歌


 「ニュー・シネマ・パラダイス」を観たことがあるだろうか。

 イタリア、シチリア島の小さな町を舞台に、町に1つの映画館と、映画に魅せられた少年との関わりを描いた一代記だ。シチリアの景色にエンリオ・モリコーネの音楽がかかれば、それはもう映画である。そしてこれは、映画を好きになる映画でもある。

 町に1つの映画館には、いつも町中の人々の顔が並ぶ。そこには、悪ガキも、神父さんも、大人の男たち、女たちも全員がいる。そして少年トトは、映写技師のアルフレッドにいつも映画の話を聞き、町のみんなと映画を観る。その内に映写機の扱いを覚え、大きくなると今度は自分で映画を撮り始める。そして、今や世界を飛び回る大映画監督になっているのだ。

 物語は、大人になって映画監督になったトトの回想という形で進んでいく。輝かしい日々はあっという間に色褪せて、二度と戻っては来ない。それはまさしく、映画黄金時代へのノスタルジー。あの時代に映画館には何があったのか。

 残念ながら、僕たちはその世代ではない。今や映画は、たまの休日にポップコーンとコーラを片手に、女の子に見栄を張って本当は自分の観たいのとは違う上映に足を運んだりするくらいのイベントになってしまった。当然それはそれとして、悪くないと言って楽しんでいる自分もいる。薄い塩味のポップコーンが僕の腹を満たしていく。

 そして残念ながら、あの時代の映画館はどこを探しても見当たらない。

 だが僕はそれを、バレンシアの田舎町にある小さなサッカースタジアムで見つけるのだ。

 僕が所属するクラブは、バレンシアの田舎町、ブニョルにある5部の小さなクラブだ。だが、そこには立派にスタジアムがあって、スポンサーが付いて、市もお金を出してくれている。

 週末のスタジアムの景色は、まさにニュー・シネマ・パラダイスである。これが、フットボールがこの国の文化である所以なのだと思う。そこには、楽しいだなんて、そんな陳腐な感情だけじゃない、いわば町の人々の人生が詰まっているのだ。

 ここにいる人々にとってフットボールは、たかが乾いた日常を潤すエンターテイメントという存在ではない。勝てば嬉しいし、面白い試合が行われれば楽しいだろう。だが、フットボールと人々の関係というのはそれだけに留まらず、その間には怒りや悲しみも全てがあって、それでこそ人生なのである。

 クラブが上手くいかなければ悪い口も吐く。リーグの降格が決まれば、深い嘆きも聞こえてくる。子供はそれを見て育ち、選手に話しかけ、いつしか自分がその町を背負う選手になって出ていくのだ。

 アルフレッドに言わせれば、「人生は映画のように簡単じゃない」のだろう。それはつまり、人生はフットボールのように簡単じゃないのだ。

 異国の地で異国の言葉を話していれば、やはりいつもロスト・イン・トランスレーション。社会の一員になって働き始めてもみるのだが、劣等感、猜疑心に苛まれる。孤独な群衆。

 時代に翻弄され、自分にできることなど何一つないことに気が付き、コロナがそうするように、孤独はどこまでもつきまとい人から人へと移っていく。だが、僕たちはそこに折り合いをつけ、自分の中に1つの答えを出さなければいけない。

 僕の答えはというと、それはやはり、「フットボールはフットボール」なのだ。

 フットボールを好きになって、時に落ち込めば、やめたくなる日もあり、裏切られては、また救われる。だが、どんな時もフットボールはフットボールであり続けた。ピッチの上では自分の答えをいつも出し続け、間違いに気がついても次のプレーは始まっている。

 再びボールが蹴られると、それは頭上高くに。芝を蹴る。二人の選手の肘がぶつかり、どちらかが先にボールに届く。それを、固唾を呑んで、みんなが見ている。



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