マガジンのカバー画像

ボタニカル哲学(菜根譚)

354
菜根譚は、今から約400年前の中国において、内乱や政争が相次ぎ混迷を極めた明代末期、万歴帝の時代(1572-1620)「厳しい時代の中でどう生きるのか」をテーマに、中国明時代の哲…
運営しているクリエイター

#メンタル

ボタニカル哲学(後集131)すべて「減らす」人生

人生というものは、何かを少し減らせば、少しだけ何かを越えてゆける。 もし付き合いごとを減…

力蔵
1年前
97

ボタニカル哲学(後集130)一歩離れて冷静に判断する

逆巻く波が天のよう覆い被さってしまえば、舟に乗っている人は怖さを感じないが、外で見ている…

力蔵
1年前
89

ボタニカル哲学(後集128)無事の徳

何か一つ出来事があれば、一つの弊害が生れる。だから、この世は、何事も起きないことを良しと…

力蔵
1年前
70

ボタニカル哲学(後集126)天の誘惑、世間の陥穽

分不相応な幸福や理由も無く手に入った物は、造物者が人を釣上げる餌でなければ、人の世に仕掛…

力蔵
1年前
42

ボタニカル哲学(後集125)隠士田父の清心

山林で隠遁生活をしている者は、清貧であっても俗世間を超えた豊かさがあり、田畑で働く農夫は…

力蔵
1年前
45

ボタニカル哲学(後集124)風流に流されない

花を植え竹を育て、鶴を飼い慣らし魚を鑑賞するにも、何かの気付きが無ければならない。もし、…

力蔵
1年前
50

ボタニカル哲学(後集123)人間性を汚すもの

山菜は人の世話を受けないで育ち、野性の生き物も人の世話を受けずに育ち、其々の味は風味があり個性的である。我々人間も、俗世間の慣習に染められなければ、その人望や風格は格別だろう。 つまり、達人は、大いなる自然の摂理に学び、独立独歩で生きてゆけば、元来の面目が現れ、大人格者となるだろうということだ。 言換えれば、達人を慕う後輩がいれば、彼らを自分の価値観で教育しようなどとは考えてはいけないという戒めである。 ↓↓↓↓↓ オンライン勉強会(無料)を開催しております ↓↓↓↓↓

ボタニカル哲学(後集122)花の見ごろ、酒の酔い加減

花は五分咲きを観て、酒はほろ酔い程度に飲む。このような状態がこの上なく素晴らしいのだ。も…

力蔵
1年前
36

ボタニカル哲学(後集121)塵世苦海は心の持ち方から

世間の人々は名誉や利益を求める事に心が縛られ、ともすれば、この世は汚れて苦労の多いところ…

力蔵
1年前
30

ボタニカル哲学(後集120)自他の区別を忘れる

耳の機能は、つむじ風が谷を廻る音に似て、音が止んでしまえば、良し悪しは無くなる。心と対象…

力蔵
1年前
45

ボタニカル哲学(後集119)吉の中に凶を兆す

子供が生れる時、母は危険な状態となり、金が溜まれば泥棒に狙われ、どんな喜びも心配ばかりで…

力蔵
1年前
36

ボタニカル哲学(後集118)端坐寂静にして自然と一体となる

人の心は、活動中にその本質を見失う。もし、僅かな雑念も無く、清清しい心の状態で静坐すれば…

力蔵
1年前
32

ボタニカル哲学(後集117)小人閑居して不善をなす

人生が閑すぎると下衆な考えが浮かび、急がし過ぎると本性が現れない。だから、上に立とうとす…

力蔵
1年前
32

ボタニカル哲学(後集116)我が身を修めて万物に及ぶ

自分自身、独力で悟りの境地を得た者は、それにより始めて万物の本来の在り方を観て、万物を在るがままの状態にしておける。天下を本来在るべき姿に還した者は、それにより始めて、俗世間に在りながら俗世間を超えられる。 つまり、悟りとは自我を超え、自分を含め物全てに本質を観る事が出来、本来の在り方に委ねられ、社会を自然な流れ戻した者は、現象の内に在りながら本質の世界に生きられる。 言換えれば、達人とは、全ての事物を現象として認知し“在るがまま”を完全として受け止められる人間である。