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【小説】ステイ・クリア

 誰しも、人生の中で一度は不思議な体験をすることがある。私の人生ではその“不思議体験”が比較的早く訪れた。
「きみという人物に興味がある」
 耳にはっきりとした輪郭をもって響いた声。男の人の声だった。いまだかつて、こんな文句で突然話しかけてくる人に出会ったことなんてなかったし、これからだってもう二度とないだろう。それくらい、印象的な出会いだった。
 その日は、高校二年生の5月1日。
 毎月私の通う高校では月の初めに体育館で全校集会が行われていたため、この日も朝からそれほど大きくもない体育館に生徒と先生たちが集まっていた。
 真ん中に私たち二年生が並び、前に一年生、後ろは三年生だった。
 平均的な身長をしている私だけれど、体育館で並ぶ時だけは男女二列ずつになるため、ちょうど一番後ろになった。後ろに人がいないと背中がすうすうする。しかも、三年生の視線を感じるこの場所は些か居心地が悪かった。
 全校集会といっても、今月の学校の目標が発表され、校長先生の話があり、最後に校歌を歌うだけ。これだけのために全生徒が集まるのだから、生徒たちが鬱陶しがるのは先生たちも重々承知だろう。それでもこうやって全校生徒が一堂に会す機会は貴重らしい。
 私は——というか、これは全生徒の総意なのだろうけれど——毎月なんら変わりばえのない「校長先生の話」にうとうとと首を縦にふりそうになった。
 いけない。起きなくちゃ。ここで寝ると後で担任に注意されるのだ。私は、体育座りの足の下で右手首をつねりながら、校長先生の頭上——ステージの壁に飾られた不思議な絵をじっと見ていた。
 画の右半分を占める真っ赤な太陽。彼のものはなぜか顔を持っている。その目が見つめる先にあるのは、全身青色をした人間。これには顔がない。マントのような羽織りを着ているだけの人だった。
 何かの童話の絵なのか、単に風景を模しただけなのか、誰の作品なのか、全く分からないけれど、私は一年生の頃からその絵が気になって仕方がなかった。
 絵を習ったことはないのだけれど、絵を見るのは昔から好きだった。
 絵を描く人も、好きだ。
 私の母が趣味で水彩画をよく描いていて、私は小さい頃から母の絵を描く姿を見て育った。母は画家ではなかったけれど、自分が描いた絵を葉書にしたり、Tシャツにプリントしたりと趣味にしてはやたらめったらこだわりを持っていて。今でも時々、「この絵、どう思う?」と私に感想を求めてくることがある。
 とにもかくにも、私に絵心があるかどうかはさておき、絵を見ること、絵を描く人を見ることは大好き。
 体育館の名前のない絵画を注視していると、司会担当の先生が「これで5月度の全校集会を終わります」とアナウンスするのが聞こえた。
助かったー。あの絵のおかげだ。校長先生の話をまともに聞いていたら、さっきの閉会の挨拶で飛び起きるところだった。
 集会が終わると、三年生から退場する。自分たちの番が回ってくるまで、私たち下級生は「黙想」をして待っていた。
「二年生、退場してください」という指示があり、ようやく顔を上げて出口の方に進み始めた。もう大丈夫。友達と喋っていても特に何も言われない。
 私は、クラスで一番仲の良い森村結衣もりむらゆいと今日の授業のことなどを話しながら教室に戻ろうとした。
 が、体育館の後方の出入り口から一歩足を踏み出したとき、不意に左肩をぽんと軽く叩かれて身体がビクッと震えた。
 とっさに後ろを振り返り、そこにいる人物に視線を走らせた。
 私の視線の先に立っていたのは、一人の男子生徒。学ランに付けられた校章の色を見るに、三年生らしい。部活動をしていない私には、知り合いの先輩など皆無だ。したがって、目の前に飄々と立っている彼が一体どこの誰なのか、検討がつかなかった。
「……あの、どなたですか?」
 その人は私に、にっこりと笑顔を向けていた。
 なに、なんなの、この人。私に何の用?
 人違いなんじゃないか。
 そう勝手に納得しかけたのだが、
朝倉南あさくらみなみさん、だよね」
 え、ええ!?
 なんで私の名前を知ってるの! というか、あなたは誰なのという私の質問に答えんかい!
 怪しさをむんむんに醸し出しているその男の先輩は、しかしとても端正な顔立ちで、爽やかな笑みを依然として浮かべていた。普通に考えたら、いかにも女子にモテそうなタイプだ。そんな“勝ち組”な先輩がなぜ帰宅部で地味な私なんかに声をかけてきたの?
「そうですけど、何か?」
 隣を歩いていた結衣も何事かと私と共に先輩の姿をまじまじと見つめている。
「突然話しかけてごめんよ。実は僕は」
 なんだろう、この背中がむず痒い感じは。
 私たちの脇を通りすぎてゆく生徒たちのガヤガヤとした話し声が、一気に耳に入らなくなる。心が強制的に「彼の言葉を聞きなさい」と命令しているかのようだった。
「君という人物に、興味があるんだ」
 じゅわ。
 掌から大量の汗がにじみ出るのを感じ、思わず制服のスカートを握った。
 私は、「え」と声に出して露骨に驚いてしまった。
 ちなみに、隣にいた結衣も「は」と隠しきれない驚きを口にした。
「それ、どういう意味……?」
 意味も何も。
 単に興味があるだけなんだ。
 答えになっていない答えを、先輩はのたまう。
 とにかく、この硬直状態からなんとか抜け出したい一心で、私は「すみませんっ」と早口で告げ、結衣の腕を引っ張り、その場から逃げ出したのだった。

「ねえ、あの人誰?」
 ゼエゼエと、肩で息をしている私とは違って、陸上部の結衣は涼しい顔をして興味津々に聞いてきた。
「知らない」
 というか、こっちが知りたい。
 私はかの先輩のことを知らない。
 それなのに、彼は私のことを知っているというのだろうか。
 それとも、ただ後輩をからかって遊んでいただけなんだろうか。
「えー? 知らないの。変なの!」
 普段から、結衣と話すときは気になっている男の子の話や陸上部で流行のSNSの話題で持ちきりだ。部活に入っていなければSNSもLINEぐらいしかしていない私にとって、結衣の話は刺激的で“女子高生”をやってる感じがした。まあ、結衣に言わせれば、「南の感覚が十年遅れている」だけらしいのだが。
「そっかそっかー。じゃあ、あの先輩、南のストーカー? こわっ」
 両腕をさすりながら言う結衣は、授業が始まりそうだからと自分の席に戻っていった。
 不思議な出会いとともに始まった高校二年生の5月。
 何かが起こりそうでもあるし、結局何も変わらないのだろうとほとんど信じていた。
 その日の、放課後までは。

「南、ストーカーには気をつけなよ。また明日」
「大丈夫だって。ばいばい」
 放課後になると、部活動に所属していない私はいつものごとく陸上部の練習に向かう結衣に手を振って教室を後にする。
 普段ならこのまま下へ降りて昇降口に向かうのだが、今日はなんとなく、すぐに帰る気になれず四階まで上った。二年生の教室は2階にあるため、4階まで上るのはわりと体力を使う。実は、こうして放課後にまっすぐ帰らず、4階のとある教室に赴くのは初めてじゃなかった。今日で、3回目。ふとしたタイミングで、身体がふわっと勝手に動いて“そこ”に辿り着くのだ。
 たくさんの教科書を詰め込んだ重たいリュックを背負い、目的の教室の中を、窓からそっと覗く。
 微かに鼻をつくシンナーのような香りが、私にとっては心地が良い。
 美術室の中で、美術部員たちが黙々と筆や鉛筆を動かす姿を見るのが私は好きだった。一年生の時、部活動見学期間に一度、その後年明けに一度、部室を訪れたことがある。どちらも部員の人たちに迷惑をかけない程度にひっそりと中の様子を窺うくらいだった。
 なぜ自分が美術部に入らなかったのかといえば、理由は簡単。
 自分には美しい絵を描ける才能がないと知っていたからだ。
 確かに家では母が暇さえあれば絵を描いていていたが、私が自分で絵を描いたことなどほとんどない。ノートにする落書きくらいだ。
 それでもやっぱり私は、絵を見るのが好きだった。
 絵を描く人も好きだったから、こうして何度か美術室に足を運んでいる。自分が絵画に参加することも、部員の人から話を聞くわけでもなく。
 ただ、眺める。
 そうしていれば、心に溜まった心配事や不安が、和らいでゆくのだ。
「あの、ウチの部に何か用ですか?」
 考えごとをしていたせいか、人が教室から出てくるのに気がつかなかった。
 後ろの扉から、三年生の女の先輩が出てきたところだった。
 その時の私といえば、廊下の窓側の壁に背中を付けて何もせずに佇んでいるだけだったので、誰かを待っている人間にしか見えないだろう。
「あ、いえ。ちょっと中を見せていただいているだけでっ……」
 何か悪いことをしたわけではないのに、話しかけられたことが恥ずかしくて今すぐにでも逃げたくなった。
「あら、そうなの。あなた、二年生ね。良かったら中で見ていく?」
 女の先輩は私が後輩だと分かると、頬を緩め、思わぬ提案をしてくれた。
「いいんですか?」
 本当はずっと、近くで絵を描く人を見てみたいと思っていた。でも、急に扉を開けるなんていう度胸は私にはなくて。
 こんな機会が訪れるなんて、私、ちょっとラッキーかも。
「ええ。ちょうど自由に描いてたとこだし、見学の人が一人来たところで、減るもんじゃないしね」
 なんて懐の大きい先輩なのだろう……!
 感動した私は、思わず自分の口元がにやけるのを感じ、すぐさまはっと身を引き締めた。  いけない、いけない。初対面の先輩におかしな後輩だと思われちゃう。
「ありがとうございます。ぜひ少し見学させてください!」
 深々と頭を下げる私。嬉しくて背中の荷物の重さなど、すっかり忘れていた。
 美術部の先輩から「おいで」と言われ、「失礼します」と小さく挨拶をして美術室に立ち入った。驚くことに、私が入室しても、絵を描いている美術部員たちは振り向きもしなかった。
 すごい集中力……。
 きっと、彼、彼女たちは、いま描いている絵のこと以外、頭にないのだ。
 運動場から聞こえてくる運動部の声や、空を舞うカラスの鳴き声、車のエンジン音。
 その全てが、ここでは無音。
 筆や鉛筆を動かすサッサッサという音だけが、くっきりとした輪郭をもって空間に響いている。
 私は息をのんだまま、絵を描く人の後ろ姿、滑らかな手首の動き、瞬きすらせずに描く対象を見つめる視線を、目で追っていた。
 私自身が絵を描いているわけでもないのに、まるで自分の目の前にキャンバスが広がっているような気がした。
「あら、お久しぶりのお客さんだね」
 不意に、聞き覚えのある穏やかな男性の声がして、はっと我に返った。
 声は、私の背後から聞こえた。
「あ、あなたは……!」
 そこにいたのは今日、全校集会のあとに声をかけてきたあのストーカー男・・・・・・・・だった。
「やあ、さっきぶり」
「す、す、す、ストーカーの先輩!」
「きみは、面白い表現をするんだねえ」
 くくく、と声を押し殺して腹を抱える彼。
 一体何が起こっているのか分からない私は、「なんで」「どうしてここに」「あなたがいるの」と、ロボット口調で尋ねていた。
 先程まで描くことに集中していた他の部員たちも、私たちのやりとりが気になるのか、チラチラとこちらを見てきた。
「なんでって、それは愚問だね。僕が美術部員だからに決まってるじゃないか」
 それ以外に何かあるの? と純粋なウサギのような目で見つめられた私は、思わずどきっと心臓が鳴るのを感じた。なんだ私、この人のマイペースさに相当やられている……。
「美術部……だったんですね」
 だったんですね、と言っても、今日会ったばかりの人なのだから、知らなくて当然なのだが。
 確かにその先輩もイーゼルの上に載せたキャンバスに青い絵具をぶちまけたようにしか見えない抽象的な絵を描いていた。
 というか、待てよ。
 私はある事実に思い至り、それを確かめるべく彼に問うた。
「もしかして先輩って、私が何度か美術室を覗きに来ていたのを、知ってたんですか」
「ご名答」
 どこかの教授みたいな口ぶりでニヤリと口の端を上げた先輩。なんだか、してやられた気分になる。
「でも、どうして私の名前を知っていたんですか?」
「それは、後輩に聞いたらすぐに分かったよ」
 ああ、その手があったか。
 その“後輩”というのは恐らく、一年生の時同じクラスだった子に違いない。今日は来ていないようだけれど。
「……そうだったんですね。分かりました。それで、先輩の名前は?」
 なんだかいつの間にか、この先輩と会話を続ける流れになっている。しかしそれは、無理やり誰かに強制されているわけではなく、私自身、この不思議な先輩のことを知りたいと思ったからだ。
「そういえば名乗っていなかったね、失礼。僕は、北海斗きたかいと。三年二組。よろしく」
「キタカイト」
 初めて彼の名前を聞いて、思わずぎょっとした。
 だって、名前に“北”が入っているんだもん。
 私は自分の「南」という名前に対照的な「北」を持つこの先輩に、強烈に惹かれたのだ。

 北海斗先輩と私は、その後時々放課後におしゃべりをする関係になっていた。
 美術部の活動は、月・水・金の週に3回。そのため、火曜日と木曜日の放課後はフリーなのだと教えてくれた。帰宅部の私はもちろん放課後いつでも暇である。たまに先輩から連絡が来て、「今日はどこどこの喫茶店に行こう」などとお誘いが来た。この先輩は、突然始まった私たちの不思議な関係に何も疑問を抱くことなく、普通に二人で放課後デートに誘うというチャラさを発揮していた。たとえ勘違い野郎でなくても、「先輩は自分に気があるのかもしれない」と思わずにはいられなかった。
しかし、どういう風の吹き回しなのか、彼が私に何か色恋の話をしてきたり、まして「南ちゃん、実は僕……」と帰り際に告白をしてくることは全くと言っていいほどなかった。
 というか、気配すらない。
 恋が始まる気配。
 ああ、この人は自分のことが好きなんだきっと、って妄想できる楽しい瞬間が、だんだん「あれ?」と形のないものに変わる。
 出会ってから4ヶ月。
 季節も変わり、秋の気配が漂う9月になった。
 先輩は受験生にもかかわらず、月に4回ほど放課後に私を呼び出した。かと思えば、全く会わない月もあった。あまりにも頻繁に、そして長い間関係を続けている私と先輩を見た結衣は、「もう手とか繋いだの?」と興味津々に聞いてくる。
「いやいや、だからそういう関係じゃないって」
「え? だって、めちゃくちゃ会ってるじゃん」
「そうだけど。先輩とはそういんじゃないって」
 答えながら、自分でもなんだが虚しくなってきた。
 先輩はなぜ、私のことを誘うのだろう。学校帰り、駅前の喫茶店。電車通学のうちの生徒が多く利用するその場所では、いろんな人に先輩と私が一緒にいるところを見られている。まあ、それほど仲良くない人とか学年が違う人とかに見られたところで気にしなければいいのだが、時折先輩の友達らしく男の子が「海斗じゃねえか」と先輩に手を振ってくる。恥ずかしくないのかな、と思うけれど、先輩は例によってにこにことした当たり障りのない顔で彼らに手を振り返している。
 喫茶店で私たちが話すことは、最近先輩が描いている絵のことや、通学途中に餌をねだってくる猫のこと、国語で習った小説の話など、超絶他愛のない話ばかり。
 特に、先輩が描いている絵の話でよく盛り上がった。
「この間は、きみの掌を描いたんだ」
「それ、また青色で、ですか?」
「もちろん」
「えー! めっちゃ、不気味になりません? 青い人の手なんて、エイリアンですよ」
「そうかな。僕は綺麗だと思うよ。内側に流れている血液が海みたいに荒れていて、そうかと思えば凪いでいるのを想像するんだ」
 得意げに言いながらアイスコーヒーを静かに啜る先輩。彼は独特な感性を持っていて、私はいつも、あまりついていけないのだけれど。
 それでも、絵の話をしている時の先輩は、とても楽しそうだ。
 私たちの年齢ならば、カラオケに行ったり友達と羽目を外したりするのが楽しい年頃なのかもしれないけれど。先輩は絵を描き、私は先輩の描いた絵を鑑賞する。
 そして、楽しそうに描いている先輩を、私はいつまでだって見ていていられる気がした。
「生まれつき赤が見えないんだ」
 先輩からそのことを聞いたのは、出会って一ヶ月が経過した頃だった。水曜日の放課後、美術室に遊びに来ていた。その頃にはもう、部員たちから私の存在が認知されており、時々勧誘を受けるほどだった。
「先輩はなんで、青い絵ばっかり描くんですか?」
 しとしとと、少しばかり早い梅雨の雨が降り続く日だった。窓の外から、その日は雨の音しか聞こえなかった。
 青、青、青。
 いつものように先輩のキャンバスには、青色が広がっている。空のようにも見えるし、海にも見える。先輩は一体何を描いてるんだろうと気になって尋ねたら、「涙」だと言った。
「赤が、分からないからさ」
 たったひとこと、それだけ答える。
 赤が分からない。
 先輩は、先天的な色弱だった。色盲とか、色覚異常とか呼ばれるもので、私もなんとなく聞いたことはあった。一部の色の感じ方が一般の人とは異なり、その種類もいくつかあるらしい。海斗先輩はその中でも、赤と緑を見分けるのが難しいのだと言った。
「これが赤だっている自分の中での区別はあるよ。でも、僕の見ている赤は、少なくともきみや他の皆とは違うから」
 窓の外に降り頻る雨を目で追いながら、先輩は「青は確かにそこにある」と呟いた。
 私はなんとなく、先輩が掴みどころのない何かを追いかけている気がした。
 先輩がそういう理由で青い絵を描き続けていると知ったその日から、私は先輩にずっと心を奪われていた。
 9月になり、部活を引退した先輩はそれでも自分で描き続けていたから、いつでも絵の話を聞くことができた。受験生なのだから、勉強はしなくていいんですかと聞いても、「僕は受かるところに行くつもりだから」と余裕の構え。
 それでも、本格的に秋めいて、クローゼットからブレザーをひっぱり出してきた頃には、先輩からの誘いも月に一度、あるかないか程度に減っていた。
 冬の寒さも相まってか、無性に寂しくて先輩に「お久しぶりです」とLINEをしようかと何度も悩んだ。でも、受験勉強の邪魔をしちゃダメだと思い直し、結衣とひたすら空白の時間を埋めた。
「もう、我慢できない」
 ファストフード店でポテトを口に放り込むと、じゅわっと広がる塩味が染みた。
「年明けたらあっという間に受験だし、卒業だもんね。あー、あたしたちも来年は受験生かあ。やだなー」
 12月24日。
 女二人、世のリア充たちへの愚痴を吐き、友達同士ではしゃげるクリスマスも捨てたもんじゃないと開き直る。だが、「あたしたち、そんなはしゃぐキャラじゃないじゃん。ウケる」と結衣の冷めた一言に「だよね」と曖昧に笑ってみせた。
「てか、早く告っちゃいなよ。何をしぶってんの。訳わかんない」
 本当に心からそう思っているのかいないのか、他人の恋愛話ほど面白いものはないと思っているだけなのか、結衣はどこか楽しそうだ。
「私だって、訳わかんないの」
 何度も、先輩に想いを伝えようと試みた。
 その絵、綺麗ですね。
 ずっとそばで見ていてもいいですか? 
 思いつく台詞はどれも、到底「I love you」には聞こえないものばかり。
 というか、男ならそっちからさっさと告らんかい! 
 気がつけば結衣の方が、酔っ払いのおじさんのごときツッコミを放ちコーラをごくごくと飲み干した。
 男なら、さっさと、ね。
 いや、違う。そうじゃない。
 どっちから言うとか、男から告白しなきゃいけないとか、その後の力関係がどうとか、そういう問題じゃない。
 大事なのは、どれだけ本気でその人を想っているか、じゃないのか。
 私はどれだけ、先輩のことを、本気で考えているの?
 自分が、情けなくなる。結衣に愚痴を吐くだけで、何も行動をしない自分が。
「私……、伝えてくる」
「え」
「今から、伝えにいく」
「まじで」
「先、行くね。ごめん結衣。今度また埋め合わせするから!」
 突然の行動に結衣はポカンと口を開けたまま、それでも「わ、分かった」と私の気持ちを察してくれた。
 私はリュックをひっつかみ、急いで背負いながらファストフード店を出た。
 外に出ると、冷たい何から頬に触れた。
 雪……。
 ホワイトクリスマスなんて、聞いてない。
 そんなロマンチックな言葉、先輩と一緒じゃなきゃ、意味ないよ。

「海斗先輩」
 もうすっかり慣れてしまった画材の匂いに埋もれるようにして、先輩はキャンバスに向かっていた。久しぶりに目にするその姿を見ると胸がぎゅっと締め付けられた。
「よく、ここだと分かったね」
「引退してからもちょくちょく行ってたんでしょう。わざわざ、木曜日に」
「ご名答」
 いつかと同じ台詞が、先輩の口から聞こえて懐かしさが込み上げた。あれだけ聞きたかった先輩の声は、一瞬にして私を安心させてくれた。
 先輩以外、誰もいない美術室。暖房の効かないこの部屋には、電気ストーブが一台。先輩はそのストーブすら点けずに、一枚の絵を描いていた。
「寒いから点けましょうよ」
「いや、いいんだ。今とっても温かいものを描いているから」
「なんですか、温かいものって」
「きみの、心臓」
 もう、なんだそれ。めちゃくちゃじゃないか。きっとまた青で描いている。そんなのやっぱりエイリアンじゃん。先輩は私のことを、何だと思っているんだろう。
 いろんな感情がごちゃまぜになり、私は先輩が筆を走らせているキャンバスに目をやった。そこにはあろうことか、真っ赤な炎のようなまるい心臓があった。
「先輩、それって」
「赤色、だろ。これって、きみにはどんなふうに見えてるんだろう」
 先輩には赤が見えない。正確には、一般の人と同じ赤が見えない。
 でも、先輩の中に「赤」は確かにあって。私はそれを、掴みたかった。今もずっと。
「私、先輩が好きです。先輩の青い絵が好きです。先輩の“赤”をもっと知りたいです。それぐらい、好きなんです」
 後には引けなかった。
 私の心臓は、先輩の絵のように、燃えている。
 先輩の中に潜む燃えるような「赤」を、私は知りたいのだ。
 先輩は、珍しくすぐに返事をしてくれなかった。いつもの彼からしたら、「よく言えたね、えらいえらい」とでも茶化してみせただろう。けれどこの時、海斗先輩が十分に思考を巡らせて出したであろう答えは、私の想像するものとは違っていた。

「ありがとう。純粋に嬉しいよ。でも、きみに恋愛感情はないんだ」

 砕かれた。木っ端微塵に。燃えていた火に、バケツの水をぶっかけられた気がした。
 ああ。どうして。
 どうして私は、先輩の心が私にあるだなんて思ったんだろう。
 だって私に言ってくれたじゃん。「興味がある」って。私の手や心臓を描いてくれたじゃん。見えないはずの赤を使ってまで、私を描こうとしてくれたじゃん。
 後退りしながら、「はは」と力なく笑いながら、私は逃げた。その場から走り去った。足がガクガクと震えて転げそうになりながら、走った。
 もう、先輩と話すことはないのだろう。
 ありがとうございました。少しの間でも楽しかった。
 落ちてくる涙を拭いながら、思う。
 どうか先輩が、この先私を忘れてくれますように。

***

 もう二度と会わない。
 15年前、高校二年生の私は、好きだった人を想いながらそう胸に誓った。
 それなのに、若かりし日の勢いで誓っただけのその言葉は、結局その後一年とちょっとで破られることになった。
 私は、海斗先輩と同じ県外の大学に進学した。「だって偏差値的に一緒だったし」と自分に言い訳しつつ、心のどこかでしっかり先輩を追いかけていた。
「やあ、久しぶり」
 大学で先輩に再会した時、私は二年生で、先輩は三年生だった。偶然、同じ講義を受けていたのだ。それまでは、自然と会えたらいいなと思いつつ、なかなか会えない日々が続いていたからとても驚いた。自分から連絡する勇気もなく、高校とは比べ物にならないくらい人の多い大学構内で、ひたすら偶然が起きるのを待った。
「……お久しぶりです」
 大学三年生になった先輩は、全然変わっていなかった。多くの大学生がジャージや流行りの洋服を着て授業を受けているのに、なぜか先輩は甚平を着ていた。その揺るぎのなさに、思わずふふっと笑ってしまった。
 それから、先輩とはまた、以前のように気が向いた時に顔を合わせる関係になった。大学生にもなると喫茶店じゃなくて、Barや居酒屋で語らうようになった。趣味の話や最近受けた講義の話、おすすめのご飯屋さんの話。そのどれも、先輩の変わった嗜好を織り交ぜて聞くとなると、魔法のように面白くなった。
「実はね、最近気になる子がいるんだ」
 先輩が初めて、色恋の話をしたのもその頃だった。
 その人は一年生で、美術サークルで出会ったらしい。「じゃあ今同じサークルなんですか」と聞くと、「いや、新歓の時に来てくれただけで、入ってはいないよ。時々ご飯に誘ってるけれども」とのんびり返された。
 さすが、チャラいストーカー男め。
 心の中で毒づきながらも、先輩らしいなと微笑ましく思った。どうやら思いのほかその女の子にぞっこんらしい先輩の楽しそうな話を聞いていると、胸の奥で、古傷が疼いた。 先輩って、好きな女の子のことを、こんなふうに語るんだ。そんなに愛しそうな目をして、その女性のことを考えるんだ。
「初めて人を好きになったかもしれない」
 日本酒を嗜む先輩が、赤ら顔で言った。本気だ。先輩の気持ち。久しぶりに誰かの本気の気持ちに触れた私は、なんだか心がざわついた。苦いお酒が飲めない私は、目の前にあるレモンチューハイを一口ごくんと飲み込む。
 先輩はひどい。私という女がそばにありながら、他の女の子にうつつを抜かすなんて。
 先輩の恋が、失敗しますように。
 知らず知らずのうちにそんな不吉なことを願っていた自分が空恐ろしく、「ばか」と今度は自分に毒づくしかなかった。

 その後先輩が大学を卒業し、東京の商社に就職しても。
 私が大学を卒業し、地元で公務員になっても。
 たまのやりとりで、先輩がまだその女の子のことが好きなんだと何度も知らされて。恋愛相談じゃないけれど、先輩が語るその子が可愛らしく素直で、でも小悪魔なところが愛しいという話を百回くらい聞かされて。
 気がつけば、15年。
 先輩との関係は平行線のまま、五年ぶりに地元で飲もうという話になった。
「南ちゃん、大きくなったね」
「いや、全然変わりません。というか、もう私も30過ぎなんで、“南ちゃん”はやめてください」
「僕にとっては変わらないよ。南ちゃんは南ちゃん」
 母校近くの居酒屋で落ち合った私たちは、昔の思い出話に花を咲かせた。海斗先輩ワールドは健在で、「南ちゃんが楽しそうに僕の話を聞くのが嬉しくて」と悪気もなく「私と一緒にいて楽しい」のだと主張してくる。
 この人と付き合ううちに、とっくに理解していたのだが、先輩は男女の分けなく、好きな人間には近づき、そうでない人間とはそれほど心を通わせない。相手が異性だからって、周りの目も気にしない。私は先輩にとって、本当に「興味がある」人間だったのだ。最初に彼が言った言葉はその通りだった。
「そういえば、先輩はどうして、ずっと私のことを描いてくれていたんです」
 高校生の頃、先輩が描く絵は私の身体の一部ばかりだった。それを疑問に思いもしたが、すっかり自分に気があるのだと思い込んでいた私は、その疑問を解消することなく大人になった。
「ああ、あれは、南ちゃんのことを知りたかったからだよ」
 ほら、また。
 先輩はずるい。いくつになっても。私に気を持たせるようなことを言う。それでいて興味があるのは、私という生物であり、私の愛とか恋とかの感情ではないのだ。
 でも先輩の言葉は、同時に嬉しくもあった。
 先輩は、私を知りたいと思ってくれていた。私が、先輩のことを知りたがったように。だから、最後に見た私の赤い心臓の絵は、私の見る世界を見ようと試みた先輩の、精一杯の努力だったのかもしれない。
 そう思うと、たまらなく嬉しい。私は少しでも、先輩の心を掴んでいたのだ。無駄ではなかった。そう思える。
「実はさ、例の女の子、結婚しちゃったんだよねえ」
 一時間、いや、二時間ぐらいか。先輩と飲み始めてから随分と長く話をした。その中で、なぜか一度もあの女の子の話が出ないと不思議に思っていたのだ。
 始まった先輩の失恋話は止まることを知らず、やれ浮気者だのやれ小悪魔などと愚痴を吐きまくっていた。その全てに、うんうんと頷きながら聞いた。
「そうなんですね、ご愁傷様です」
「それはちがーう」
 むう、と頬を膨らませそうな勢いで予想とは違ったであろう私の返しを否定した。
「先輩、よくがんばりました。えらいえらい」
「……僕で遊ぶのをやめてくれないかい」
「15年越しの仕返しです」
 実際は、へこんでいる先輩を見るのが嫌で、精一杯慰めたつもりだった。そりゃ、もう30だもんな。その子だって結婚していてもおかしくない。むしろなんで私たち、独り身なんだ、はは。
 先輩はやはりショックなのか、「はあ」と大きなため息をついて頬杖をついた。
「大丈夫ですよ。先輩はイケメンだから、またすぐに女の子が寄ってきますって」
「人を客寄せパンダか何かだと思ってない?」
「まあ、それに近い人だとは思っています」
 次第にいつものノリに戻ってゆく私たちの会話。これで、いいのだ。先輩の恋が儚くちった夜に、乾杯。
「いつか、先輩に告白したじゃないですか」
「懐かしいねえ」
 昔の告白話を当人同士でするこの違和感も、先輩となら普通だと思えた。
「あれ、実らなくて良かったかなって」
「おや、どうしてだい。僕のこと好きだったくせに」
 それ、自分で言うな! 心の中でツッコミつつ、話を続けた。
「だって、先輩と結婚したら私、“北南きたみなみ"になっちゃうじゃないですか。絶対、嫌です!」
「どんな理由かと思いきや……。でも、まあそうだね。僕も、反対さ。きみとはずっとこのままの関係でいたいし」
 きみが方位磁石になる未来なんてゴメンだしね。
 おかしな例えをする先輩はやっぱり、私が知る北海斗先輩だった。
 いつの間にか苦くなくなった生ビールや日本酒を味わいながら、思う。
 私も、あなたとの関係はこのままがいい。
 一時はその先の関係になることを願ったこともあったけれど、今は違う。
 私はこの先誰かと恋愛して、結婚するのかもしれない。先輩だって、別の誰かを愛し、その身体のすべてを描ききってしまうのかも。私はその時、燃えるように嫉妬してしまうかもしれない。そうして先輩と私はどこまで行っても、平行な線のまま、歳老いてゆくだろう。
 そのうち老人会でお茶をすすりながら、近所の猫と戯れつつ昔懐かしい話をするのかもれしれない。そのとき先輩は言う。「今もきみに興味がある」って。
 それでいい。いや、それがいい。
 先輩の声や表情を気にしながら、私は普通の人生を、先輩といつでも昔の話を語り合える人生を、送りたい。
 海斗先輩が意味ありげに私に微笑みを浮かべる。先ほどまで失恋話に身を窶していたというのにもう立ち直ったんだろうか。まあ、何でもいい。早く元気になるんですよ。なんて、優しい言葉はかけてあげないから。
「先輩、これからもよろしくお願いします」
 あなたと私はずっと、透明な関係。

【終わり】               

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