マガジンのカバー画像

小説「まなざし」

38
交通事故で聴力を失った女性、瞳美と彼女と生きることを選んだ恋人の真名人。音のない世界で、彼女のまなざしは何を語ろうとしていたのか。 普通の恋人と同じように愛し、すれ違い、味わうこ…
運営しているクリエイター

2020年2月の記事一覧

まなざし(33) 声

まなざし(33) 声

余計なことは何も考えられなかった。
ただ一刻も早く彼女を見つけ出したいという一心で玄関から飛び出し、走った。
外は先ほどまでの激しい揺れが嘘のように、沈んでいた。静まり返っていたというわけではない。誰かが誰かを呼ぶ声、行き場をなくした車のエンジン音、鳥たちがはためく翼の音、遠くから聞こえてくるサイレン。
決して静かとは言えない街は、でも確かに重く沈んでいた。

「これ……やばいな」

先ほどから目

もっとみる
まなざし(32) 我が子へ

まなざし(32) 我が子へ

足元から崩れ落ちるんじゃないかというふらつきの中、必死に掴んだドアノブを離すことができなかった。

「なんだよっ、これ!」

経験がないわけではなかった。ただ言葉にしないだけで、地面と視界の揺れの大きさが事の重大さを物語っていた。
台所から、「きゃーっ」という悲鳴が聞こえてきた。父さんが、「テーブルの下に!」と張り上げる声も。
永遠に続くんじゃなかと感じられるほどの強烈な揺れに、真っ先に思い浮かん

もっとみる
まなざし(31)揺れる視界

まなざし(31)揺れる視界

東向きの部屋に、朝の暖かな日差しが差し込んできた。いつも、朝日のまぶしさに目を覚ますのが日課だった。そのせいで、夏と冬では朝起きる時間が全然違う。冬になると、母親から毎日叩き起こされたものだ。

ああ、起きなきゃ。

自分の部屋の中で床に敷いたお布団からのっそりと起き上がる。昨日の夜、寝る時にふとベッドを見遣った。自分よりもとっくの昔に床についたであろう彼女は、背中をこちら側に向けていた。寝る時に

もっとみる