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まなざし(33) 声

余計なことは何も考えられなかった。
ただ一刻も早く彼女を見つけ出したいという一心で玄関から飛び出し、走った。
外は先ほどまでの激しい揺れが嘘のように、沈んでいた。静まり返っていたというわけではない。誰かが誰かを呼ぶ声、行き場をなくした車のエンジン音、鳥たちがはためく翼の音、遠くから聞こえてくるサイレン。
決して静かとは言えない街は、でも確かに重く沈んでいた。

「これ……やばいな」

先ほどから目に映るものが、どこまで現実なのか分からない。
瓦礫、地割れ、落下した看板。
全てが夢なのか、現実なのか、判断ができない。
外を歩く人たちは、もともと外出していた人たちなんだろうけれど、皆不安げな表情で彷徨っているみたいだ。
そういう自分も、またいつ揺れが来るか分からない現実に、不安が募っていた。しかしそれ以上に不安だったのは、彼女の安否が不確かなことだ。
母や父からのひと押しがなければ、こんなに思い切って進むことはできなかっただろう。
絶対に不用意に出歩くべきではないと分かっているけれど、それでも彼女を見つけきゃいけないと思うほどに、自分の人生の中で瞳美がいない未来を想像することができない。

ああ、こんなにも彼女を愛おしく思ってたんだな、俺は———。

社会人になってからまともに運動をしていなかった自分の足が、思うように速く動いてくれないことがとてつもなくもどかしい。
走れば走るほど、ガクンと膝に響く衝撃と痛みが前に進むことを阻む。まるで川の流れをせき止める杭のように。
動け、動け、動けよ。動いてくれよ……っ!
痛みが激しくなる膝を叩きながら、彼女が行きそうな場所を必死に探した。
瞳美にとって、俺の地元は馴染みのない場所のはずだ。家に来たのも昨日が初めてで、土地勘があるとは思えない。そうなると、誰でも足を向けようと思いつくのは公園か……。

俺は、家から徒歩で行ける範囲にある公園を思い浮かべた。多分大体は子どもの頃に遊んだことがあるはずだ。
滑り台や砂場があるだけの小さな公園から、ブランコ、鉄棒まである大きな公園。
昼間、たくさんの子どもたちと親が集う憩いの場。
高校生のカップルたちが放課後話に花を咲かせる青春の場。
いくつもの光景を思い出しながら、思いつく公園をめぐっては彼女の不在を確認した。

「くそっ……」

どこに……どこにいるんだ?

「瞳美……ひとみ……」

呼んだって意味がない。
分かっている。彼女がそばにいたって、どんなに大声で呼んだって、彼女には届かない。

「ひとみーーっ!!」

近所の住人が、家の窓から外をちらりと見て、カーテンを閉める。
おかしな奴だって思われたんだろう。こんな緊急時に外で何をへっているのか。余震が来たらどうするのか。いい大人が、子どもみたいに叫んでいるのを見れば、誰だって変質者だと思うだろう。

「瞳美……お願いだよっ……出てきてくれよ」

届かない。
届かない。
いつだって、誰の声だって、彼女には届かない。
思えば俺の気持ちだって、本当に彼女に届いていたんだろうか?
届いていないなんて、そんなはずはない……と頭では分かっているのに、一度よぎった負の考えがグラグラ、グラグラ、と彼女と自分の間に横たわる信頼という名の大きな木の幹をなぶり始める。
この圧倒的に不利な状況が、彼女と通じ合っているという矜持を粉々に砕いてゆく。

瞳美。
瞳美……。

幾千と彼女の名を呼んだ。
届かないと分かってもなお叫んで、これまで何度も心の中で繰り返してきたその名前を形にした。
そこら中にある公園を見送り、ひび割れた大地を駆け抜け、足の痛みが心の痛みと同じくらいに、ジンジンと音を立ててるんじゃないかってくらい激しくなった頃、どこからか、声が聞こえた。

「……けてっ」

それは、ともすれば聞き逃してしまいそうなくらい、小さな声だった。
重たい足をひきずりながら、ザッザッと地面を踏み鳴らしている自分の耳が、どうしてその声を捉えたのか不思議なくらいだ。

「瞳美……?」

その声が、彼女のものではないと知りながら、しかしどうしてかひどく懐かしいと思えるその響きに身体が勝手に動き出していた。
彼女なわけがない。
彼女は話すことができない。だから違う。それに、小さすぎて本当に聞こえたのか、あるいは自分の強い希望がもたらした幻聴なのか分からない。
それでも、進んだ。
進むしかなかった。
今はどんな小さな望みにだって縋りたい。幻聴でも気のせいでも他の誰かの声でも、何もせずに失うよりよっぽどマシだ。
声の聞こえた方向に目を向けると、そこに道はなかった。
答えは簡単で、そこには生まれた時からこの地域で暮らす者にとってとても馴染み深い川があったからだ。
俺の実家からは、あるいて15分ほどの距離にある。小さな頃はここで虫を捕ったり魚を釣っては逃がしたりしていた。高校に通っている頃は、 夏、好きな女の子と一緒に河原に座って手持ち花火をした。
歳を重ねるごとに増してゆく思い出の数々が、川を通して蘇る。あそこは俺の、大事な場所だ。この地域に住む人たちの、憩いの場だ。

それなのに、どうして。
多くの想いを映した川には信じがたい光景が広がっていた。

「あれ……なんだ?」

向こう岸の土手の方、岩で固められていた部分が、無残に崩壊していた。
近くの橋を両側から挟むようにして、橋の右と左の土手が崩れ、橋の下まで岩や土が流れ込んでいる。

地獄絵図と化した河原を見た瞬間、俺は放心状態のままその場所まで歩き出していた。側からみれば、悪魔に取り憑かれたようなふらつく足取りだったと思う。自分でもなぜか分からないけれど、あの瓦礫の山に引力のようなものがあって、それに引きつけられているとしか思えなかった。
ふらふら、ふらふら、と痛む足をかばいながら歩いていると、やがて根拠のない確信が胸に芽生えていた。
彼女が、あの中にいる。
瓦礫の下に埋もれている。
暗闇の中で、抜け出せずにいる。
たぶん自分は神様に呼ばれたのだ。ここで彼女を救えなければ、この先俺に彼女を連れて生きる資格がないのだと。
そう、示してくれた気がした。

***

崩れた土砂の近くに行くと、遠目で見るよりも酷い有様だった。

「君、危ないから近寄らないで!」

男の人の声がして、後ろを振り返ると地震が収まって外の様子を見にきたであろう近所のおじさんが、俺を止めようとしていた。しかしそんな彼も、強引に俺を引っ張ることはせず、ただ警告してくるだけだった。

消防隊や自衛隊はまだやって来ていない。しかしありとあらゆる方面から聞こえてくるサイレンの音から考えると、もう少しすればこの場所でも救出活動が行われるのかもしれない。
でも、それはいつだ?
先ほどのニュースを見る限り、地震の範囲は広範囲に渡っていて多くの場所で救助が必要なはずだ。家やビルが倒壊していれば、そちらの方が人が巻き込まれている可能性が高いわけで、川の土手が崩壊しただけに見えるこの場所に救助が訪れるのはもっと後になるだろう。

「瞳美!!」

それでも、この下に彼女がいる。
なんの根拠もないのに、俺にはわかる。

躊躇いはあった。でも、一瞬で振り切って積もる瓦礫をどけ始めた。

「瞳美っ!」

もしも橋の下に空間ができているのなら、彼女は生きている。地震が起きてからまだそれほど経っていないため、今ならまだ救えるのだ。
シャベルか、せめてスコップでも道具があれば良かったが、身一つで家を飛び出してきた俺は自らの手を汚して土や岩を取り除いていく。
指先が、焼けるように痛かった。爪が剥がれそうなほど必死に現実に向き合った。
もし彼女がもう息をしていなかったらと思うと、恐怖で背筋がゾッとしたし、そもそもこの中にいなくて他の場所で怪我をしていたらと思うと、焦りで呼吸がどんどん乱れていった。

ああ、頼む。
お願いだ、瞳美。
ここで息をしていてくれ。
生きていることを教えてくれ。

祈ることしかできない俺は、心の奥で強く念じながら歯を食いしばり、土砂と闘った。

そんな俺の必死さを、神様が見ていてくれたのだろうか。
信じられないことが、その時起こったのだ。

「まな……と、くんっ……!」

「え——」

それは、まぎれもなく彼女の声だった。
彼女が俺を呼ぶ声だった。
忘れもしない、四年前に失われたその声。
今も目を閉じれば「真名人くん」と笑顔を浮かべて呼んでくれる。
ずっとずっと、聞きたかった彼女の声を、今この瞬間耳にして思わず叫んだ。

「瞳美、いるのか!?」

「ここっ……わたし、ここに……!」

伝えようとしてくれていた。
きっと自分自身、自分の声が聞こえていなくて、俺の言葉も聞こえていなくて。
上手く声が出せなくて途切れがちだし、思い切り息を吸い込んで放った言葉だと分かるくらい裏返った声だ。
言葉のキャッチボールもできない。一方的な意思表示だけれど、彼女が勇気を出して声を発してくれたから、俺は勢いを止めずにいられた。

「助ける……必ず、助けるから!!」

もう迷いはなかった。
神様の言う通り、俺はここに導かれて彼女を見つけたのだ。
妄想だって、乙女チックだって、馬鹿だって思われてもいい。離れられない糸が自分と彼女の間には絶対にある。

「瞳美っ!」

ようやく空を掴んだ指先を、彼女の手が包み込むのが分かった。

そこから空いた穴を広げ、塞がっていた視界が開けた。中はとても暗くてそこに人がいるなんて信じられない空間。土埃で汚れた彼女の顔が、俺の方を向き泣いていた。

「瞳美……無事で、良かった」

覚えているのはそこまでで、彼女の安否を確認すると全身から力が消え失せて、土の上で意識が遠のいていった。

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