マガジンのカバー画像

小説「まなざし」

38
交通事故で聴力を失った女性、瞳美と彼女と生きることを選んだ恋人の真名人。音のない世界で、彼女のまなざしは何を語ろうとしていたのか。 普通の恋人と同じように愛し、すれ違い、味わうこ…
運営しているクリエイター

2019年12月の記事一覧

まなざし(24) 一世一代

まなざし(24) 一世一代

「早坂、今日何時まで?」

日中の営業で外回りをし、夕方ごろ事務所に帰ると同僚の西田遼から声をかけられた。

会社で「今日何時まで?」というのは、つまり今日は何時まで残って仕事をするのかということに他ならない。俺は大抵1,2時間残業をして帰るが、同じ時間まで残業している同僚とは飲みに行くこともしばしば。

「あ、ごめんけど今日は無理だわ」

聞かれなくても分かる。西田は今日、俺と飲みに行けないかを

もっとみる
まなざし(23) 普通じゃない

まなざし(23) 普通じゃない

最初に一緒に暮らそう、と言い出したのは、俺の方からだった。

24歳でごく普通の商社のサラリーマンとなった俺は、あの頃と変わらずに耳の不自由な彼女と一緒にいた。

「いってきます」

朝、アラーム音が聞こえない彼女を起こすために、毎日6:30には目を覚ます。大学時代、夜遅く寝て朝遅く起きる習慣がついてしまった自分としては、かなり成長したんじゃないだろうか。

(いってらっしゃい)

右手をひら

もっとみる
まなざし(22) 伝えるということ

まなざし(22) 伝えるということ

7月11日。

「瞳美、久しぶり!」

大きく手を振って嬉しそうに駆け寄ってきてくれた宮本さんは、編集サークル『陽だまり』の友達だ。入院中サークルに顔を出せていなかった私は、退院した翌日に皆に会いに行った。メンバーが集まっての活動自体、週に一回か二回しかないため、ブランクのある期間はそれほど長くない。自分がいなかった期間を愁うよりも、自分の身体が普通と変わってしまったことに関して、皆にどう説明すれ

もっとみる
まなざし(21) 変わらないもの

まなざし(21) 変わらないもの

7月10日。

「退院おめでとう」

花束と共に差し出されたメッセージカードの文字を、指でなぞる。同時に、これから普通の日常に戻って生活をするという実感がぞっと湧き上がってきた。普通じゃない、今の自分の身体でどこまで“普通”の毎日を送れるのか、正直不安だった。
20歳の誕生日を意識不明のまま過ごした私は、いつの間にか大人になってしまった自分が恨めしかった。
大人って、弱音を吐けない。
一番弱音を吐

もっとみる