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生まれたくなかった、頑張りたくないから

最近は「頑張らなくていいよ」ってSNS上でもリアルでもよく言われるようになったけど、でもそれは「何もしなくてもいいよ」を指さない。

みんな「“頑張っている”の基準を下げよう」とか「少し立ち止まってみた方がいいよ」とかくらいしか言ってくれないのだ。
あくまで少し、あくまでちょっと、であって、
いつまでも、死ぬまでずっと、何も頑張らないで生きていくことは許してもらえない。

…というか多分自分が許してくれないんだよね。(社会規範が内面化されているから。これについてはまた別で書きたいかも)

何もしていなくても100%許されること、これが私にとっての本当の「頑張らなくていいよ」だから、世の中の人たちが言う「頑張らなくていいよ」は嘘だと思っている。私は。

1年前くらいからかな、メンタルがおかしくなってからのことなんだけど、
小中高と今まで生きてきて1ミリたりとも考えたことがなかった、「産んでほしくなかった」という最悪に親不孝な感情を抱くようになった。

「こんなに辛い人生を送る羽目になるのなら、最初からこの世に産み落としてほしくなかった」

大学生3年生になってからはこれに拍車がかかり、

「男と女の(つまり両親の)性欲で勝手に作らされて、両親の都合で勝手に生まれさせられてしまった」とまですら思うようになってしまった。

(なぜ人は子どもを産むのかを真剣に考えたとき、結局は性欲に勝てないからではないか、とか、「子どもがいた方が(私達が)幸せだろう」という完全な親側の都合でしかないのではないか、とかいうのにたどり着いたことがある)

だから、親の都合でこんな辛いこと・大変なことばかり存在する世界に生み落とされてしまったのに、自分の力で、頑張って(努力して)生き抜いていかなくちゃいけない。
「自分の人生なのだから、責任を持って、最善を尽くして、悔いのないように生きること。」
こんな言説が我が物顔で一般社会を闊歩している。
頑張ることが美化されていて、みんなが進んでいる道から大きく逸れること(ずっとニートとかずっと引きこもりとか)、つまり頑張らないことを選択することはぶっ叩かれるだけであって、全くもって許されない。

こんなの酷すぎる、理不尽だ、などと最近はよく考えるようになってしまった。

もちろん生きてて楽しいこともいっぱいあったし、こんな世界もあるんだって嬉しくなったり、知見が広がることや自己成長を通じて喜びを感じたりすることはもちろんたくさんあったし、今もある。

産んでくれてありがとうって本気で思うときだってちゃんとある。

ただ、今こんなに頑張らないといけないことが目の前に山ほどあって、正直もう頑張って生き続けることは無理かもしれなくて死にたいくらいなのに、
就職して、社会に出てからのこの先の人生、もっと頑張らないといけないことの方が増えるのかって考えると、どうも今ここで死んでしまった方が楽になれるのではないかと考えたりするわけです。

妹が受験勉強のしすぎで鬱っぽくなり不登校になっていたとき、母親が電話で私に、(大学受験を諦めることで)妹に逃げ癖がついてしまうことを恐れている、と話していたのを思い出す。

「逃げ癖のある人間は社会から必要とされないからね」
母のこの言葉は今思い出してもグサっとくる。

社会は、「嫌だから」という理由で逃げたり、「やりたくないから」という理由でサボったりする人間に対しての風当たりは強い。多分、そんな人間は社会には存在してはいけないし、もしいたら排除されるべきなのかもしれない。(単純に、組織にとって迷惑すぎる)
「嫌だ、やりたくない」は絶対に通用しないし、徹底的に潰される。

大学生を3年間やってきて、いまだに「今日はなんか行きたくない、やりたくない、疲れた」で授業をサボりまくる私は、自分の将来に不安と絶望しか感じないわけなんですよね。

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