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「女体持ち」のスティグマ



数日前、Twitterで「女体持ち」という衝撃的な言葉に出くわしてから心の調子がおかしい。

どんな文脈であろうとも、「女体持ち」って多分決して良い意味で使われることはない。
女体を抱えながら生きていくことで、奪われるもの、耐え続けなければいけないもの、受け止めなくてはならないもの、受けてしまう被害、そういうものが山のようにある。

私のSNS(主にTwitter)では痴漢やレイプなどの性犯罪、妊娠、堕胎、出産、育児、家事、結婚、離婚、不倫、キャリア、雇用、恋愛、ルッキズム、性風俗産業…等々、女にまつわるグロテスクでしんどくて重たくて目を伏せてしまいたくなるような話ばっかりが毎日毎日タイムラインに押し寄せてくる。

Twitterというゴミの掃き溜めみたいな言論空間において、女という生き物はことごとくモノ扱いされていて、どこまでも性の客体であり、徹底して社会の被害者であるというような描かれ方をする。

そういう現実(真偽はさておき)ばかり見続けていると、極端な話、女ってどうして生きているんだろう、なんのために生きているんだろうと思わされてしまう。
女体持ちとしてこの社会で生きていくことの意味って…?


性的消費物としての女体

Twitterが見せてくれるゴミの中でも、特別私が激しく精神を掻き乱され、傷ついてしまうものは、「女の体と男の性欲」の現実である。

そういう類の話は数え切れないほどあるが、具体的に例を挙げるならば残虐的な性犯罪や、不倫被害、不純異性交遊、夜職女性の体験記などがこれに当たる。

そういうものの見過ぎで、女の体というのは、男の性的欲求を満たすためだけにしか存在している意味がないような気が、なんとな〜くしてくるのである。

男の性欲を喚起させ、自らを消費物として提供するだけの女体。
生物学的にそうなるように作られているのであろう女体が、私にとっては気持ち悪いものとして映るようになってしまった。
だから私は女の体を抱えている自分が気持ち悪いとすら思うようになった。


孕まされる体、産める体

もう一つ、私がどうしても気持ち悪いと思ってしまうものは、産める体である女体、だ。

産む/産まないの意思に関わらず、私の身体は妊娠することができる。そういう風に作られているから。
お風呂場の更衣室で、洗面台の鏡に自分の体を映してしばらく眺めていると、自分の体が子を産める体であるのだという現実を嫌でも突きつけられる。

気持ち悪い。

私もこれはどうしてなのかは分からなくて、言語化しにくいのだけれども、でもどうしてもこれが気持ち悪くて仕方がない。

あと、これはあまり共感してもらえないだろうと感じてはいるけれど、
妊娠するという行為は、そこに女の主体的な(積極性な、前向きな)意志があろうとも無かろうとも、形だけを見てみるならば、いつ何時であれ男に「孕まされている」のである。
どれだけ女側が妊娠を望んでいようが、男に孕ませてもらわなければ子は孕めない。

Twitter風の最悪に気持ち悪い言い方をするならば、女は男の精子を求めているわけだ。
それもまた気持ち悪い。

先ほど上の方で散々させてもらった、男の性欲を受け止めるだけの女体という話と結びつけると気持ち悪さが格段に増す。


自縄自縛の女体

性被害を受けた女側にも原因があると責められることや、一般社会における女の副次的な立ち位置について考えたとき、それってきっと生物学的な女の性質が少なからず影響を与えているのではないかって、私は思う。
女がモノ化するのも、主体にまなざされる客体であり続けることも、全部女の体の作りのせいなのではないかと思ったり思わなかったり。


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