「共感」と「納得」は違う
ネット、とくにSNSは「共感」のメディアで、とにかくいまは「共感」だ、ってことになっているけど、「共感」って言葉にするなら「私もそう思ってた(おなじように感じてた)」ってことで、つまり「共感」を呼ぶ言葉や思想って何も新しいことは言ってないんだよね。あえて言うならそれを「形」にしただけ、で。
でも「納得」っていうのは言葉にするなら「なるほど」ってことで、これは「そう思ってなかった」ことを前提としている(部分的にであっても)。それでひとの支持や肯定的な感情を得るっていうのは、少なくともある面から見たら「納得」は「共感」より一段階上の行為だと言えるとおもう。
で、これだけ「共感」がありふれている現代では、もしかすると「共感」から「納得」の重要度が高くなってきているのかもしれない。
話は少し戻って、なんでこんなにもネット(SNS)で共感が求められているかといったらある種当然で、これまではテレビは共感(共有)の前提となっていたから。かんたんにいえば、「みんながテレビでおなじ番組・おなじ情報を得ている」という前提があって、それをもとに共感(共有)ができていた。でもそれがいろんな理由で崩れてきたために、共感の前提を埋める装置=SNSが普及していったんだろうな。違う角度からいうと、「共感」という装置が別の物(SNS)で代替されてしまうだけでテレビが必要とされなくなっているんだとすれば、その程度のコンテンツしか作ってこなかったのか、とも言えてしまうわけだけど。
でもさっき言ったとおり、「共感」より「納得」の重要度が高くなるのであれば、「納得」っていうのはさっき言ったとおり「そう思っていたなかった(知らなかった)」ことを「こうなんですよ」となってもらう行為で、これはある程度「腰を落ち着けて聞かせる(見せる)技術」が必要になってくるから、これについてはテレビがいままで培ってきたことなのかもしれない。でも、ほんとうにその培ってきたものが継承されているのか、いまの時代に合わせてアレンジされてきているのかはわからないけど。
っていうのと、「人工知能開発するくらいに科学は進歩してるのになんで人類は暑さ寒さを完全にコントロールできる服を開発できないんだ。開発されたら10万でも買うぞ」っていうのをコンビニで弁当とコーヒーとお菓子を買ってチャリに乗って帰る10分くらいの間で考えてました。