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東と西の国でー『道草』と『スペシャルズ!』を見て考えるー社会福祉とは「弱者のため」にあるのだろうか。それとも…。


たまたま偶然、短期間に見た。障害のある人と寄り添いケアする介護者を巡る映画。『道草』は、日本のドキュメンタリー。『スペシャルズ!』はフランスの実話を基にした劇映画。

共通するのは、自閉傾向や知的障害のある青年が地域で暮らしていくための実践と模索ー浮かび上がるのは、彼らを受け入れることのできない、わたしたちの社会の仕組みについてーなのでしたが。

でもわたしは、やっぱり自分のことを考えてしまった。肢体不自由、脳性麻痺の当事者による障害者解放運動を映し出した原一男監督『さよならCP』を見たのは、20代の始めで、アウトサイダー・アートと呼ばれる当事者による芸術を紹介する映画もずいぶん前に見た(2018年の『地蔵とリビドー』に先行する。1998 年『まひるのほし』佐藤真監督作品)本棚をひっくり返してパンフレット見つけた!)


どんどん記憶が遡っていって、精神障害をテーマとした映画といったら『カッコーの巣の上で』(1975)だよなーと思い出せば、45年前のアメリカ映画に描かれる「精神病院」とは牢獄と変わらず、主人公は治療と称する電気ショックで拷問され「ロボトミー手術」と呼ばれた脳の手術で廃人同然となる…。

自閉症を扱った映画といえば『レインマン』 ダウン症の俳優が悲しみの演技を見せる『八日目』 80年代〜90年代は世界的にノーマライゼイション(「障害のある人が障害のない人と同等に生活し、ともにいきいきと活動できる社会を目指す」という理念ー厚生労働省が提唱)が推進され、描かれる映画も変化していく。

『八日目』はカンヌで賞も取り、わたしも見た当時、考えさせられた記憶があるんだけど、いまさっき検索してみたらダウン症児のお母さんらしき人の感想に「とても嫌な映画だった。ダウン症は世間に迷惑をかけるような描写ばかりで、辛くなった」という内容のものがあって…。

いもづる式に淀川先生のコラムも出てきたんですが。あまりにも淀川さんらしく「愛」の物語としてしか見ていない😅

障害保険福祉情報システムーというサイトでは、大変に褒められている。

ことほど左様に映画(に限らずですが)とは、見る者の視点、内実によって、見方が代わってしまう(見られ方が変わると言ったほうがいいのかな)

横道に逸れまくって、何を言いたかったのか忘れそうですが、『道草』を見た時も『スペシャルズ!』を見終わった時も、わたしは思ってしまった。

なんでわたしは、この映画を見たんだろうか。翻って、様々な障害に関わる映画を見てきたのは、なんでなんだろうか。

ごく近い身の回りに障害を持つ人はいない。(いとこの一人に出産の時の事故により知的障害があり、叔母は四国で授産施設を経営しているが、一度も訪問したことはない)今の仕事は、宅配弁当の調理で、精神障害者のグループホームや個人宅にも届けられている。でも自分は配達してないので、直接触れ合ったことはない。

社会福祉的な活動も、ボランティアもしたこともない。

映画を見てるだけ、本を読んだことがあるだけだ。

こうやって言葉にしてみると、何か後ろめたさがある感じがするし、確かにそうだ。何の実践もしないのに、知識や情報だけ持ってたって意味などない。ー「関心はあるんだよねえ」と言うひとはたくさんいる。でもみんなやらない。やらない理由はいくらでもあるからーと障害児の里親を引き受けている友人から、バッサリと切られたこともある。

実践している、苦労している、努力している人たちの前で、何もしていないわたしは黙り込むしかない。

そう思っていた…でも、それも本当なんだろうか?

何もしていない。何もできないから沈黙するーそれは見て見ぬフリをしているのと同じことだよね?

映画は、何のために作られるのか。

この社会に生きる全ての人が、なんらかの理由で困っている人たちのために動き、働けるわけではない。全ての人に関われ!行動せよ!と訴えもしていない。

映画が知らせるのは、「存在している」こと、それ自体ではないのか。

わたしたちは、普段の生活の中で、全ての人がどう生きているのか、どのように存在しているのか、知ることなどできない。でもだからといって、その「知らない世界」に、何も「存在していない」ことにもならない。

日本の精神障害者、重度の身体障害者、ハンセン病患者…といった人たちは、長い間、世の中から隔離されていた。誰も知らないような場所に閉じ込められ。誰にも知られないまま生涯を閉じる。

そんなのはおかしい。「自分たちは存在しているんだ!」と車椅子から路上に這い出し、激しく訴えた映画が、『さよならCP』だったと思う。

一筋の光のように、その「存在」は、知らしめられる。知ったとたんに、知らなかった事実は覆り「存在すること」になるのだし、当事者とその家族においても「存在してもいいんだ!」という喜びと解放につながる。「存在してもいいんだ!」という瞬間から行動は始まるのだから。ノーマライゼイションの始まりとは、そうだったんじゃないだろうか。

でもまた、だからといって世間の全てが「存在してもいいんだ!」と認めるわけでもない。むしろ「存在している」ことが明るい場所で認知されるに従って「存在させない」ような力が、強く働くようになっているのかもしれない。

障害者施設やまゆり学園の大惨事、19名を刺殺した大量殺人事件を起こした犯人の動機には、重度の障害者、コミュニケーションのできない人間は、「存在する価値がない」と決めつけ、当人たちのため社会のためだから殺すー手前勝手な「正義の論理」が振りかざされていた。

身の毛がよだつ猟奇事件を、しかし世間は、そう強くは糾弾することはなかった。池田小学校で8名を殺傷した通り魔殺人事件(https://halmek.co.jp/life/c/tips/285 検索したら関連記事。遺族のお話がありました。ネットはこうやってつながり拾い上げられる素晴らしさがあるね。ネットだけに)さらに翻れば、宮崎勤幼女連続殺傷事件、神戸の14歳が10歳の子どもを殺した事件ー世の中は非難と糾弾の渦となり、多くの人々は怒り、悲しむ心を隠すことはなかったのに。

19名もの無辜の人々が無残に殺されていても、わたしたち一般の反応は、鈍かった。冷淡とは少し違うー静かだったと言うべきか。言葉は少なく、なぜこんな悲惨なことが起きるのかと眉を潜めるような。

一方で極めて大声を上げていたのは「生産性のない者は社会に必要ない」といった弱者差別、根拠なき優生思想、殺害にいたった若者の主張を肯定するかのような意見や態度だった。こうやって書いていても、吐きそうな気持ちになってくるけれど、どちらにしても共通するのは「自分自身の無知」なのだと思う。

わたしたちの多くは、重度の障害者やその家族や、施設、あるいは社会制度について、何も知らないで暮らしている。要するに普段から「他人事」でしかないことが、突如無残な事件によって顕になった瞬間、戸惑いが生まれる。その「存在」してしまった何かとの関係は、「自分との関係」になるしかないからだ。

さっきまで存在なかった関係は、自分の中では「わからない」。わからないけれども、殺人は悪だとし、人が殺される恐怖を想像しえる人は、「可哀想だ」「なんでそんな恐ろしいことを」と怯え、そして「部外者に言えることはない」と沈黙する。それが、突然生まれた他者ー障害のある人ーと自分の関係なのだ。(少なくともわたしはそうだったと思う)

「生産性のない者は社会に必要ない。殺してしまえ!」と突如、声を上げた人々の心を想像するのは難しいけれども、この世の中に、価値ある人間=金持ち、価値のない人間=貧乏人 といったものすごく単純極まる価値観が蔓延してる証拠なのか? とは想像できる。

「存在」を全否定された人々。殺された人々の「存在」を知ったとき。彼らもまた怯えるー「次にやられるのは自分だ」と。だから否定する「ああいう人たちは殺されても仕方がない。自分たちとは違う」のだと。たとえ自分自身の価値はわからなくても。

果たして「自分たちとは違う」と認識している、その一点で、両者は共通している。重い障害を持った人と自分は違う人間ー「存在」だと。

長々と道は外れていった。映画『道草』について語ろうとしていたんだから、ふさわしいのだと無理やり理屈をつけて。

日本のドキュメンタリ『道草』とフランスの実話を基にした『スペシャルズ!』に共通するのは、自閉症や様々な合併症、施設に隔離された弊害などで起こるコミュニケーションの齟齬により、社会生活が困難な若者ー(子どもではなく思春期青年期に入った「大人」あるいは「社会人」に近い人たち)と文字通り、24時間寄り添い、個人として生きられる環境を整えるために、共に生きようとする人たちの姿だった。

日本でもフランスでも、支援を必要とする人たちに、人種的にも文化的にも差異をわたしは見つけることができなかった。症状と言っていいのか、行動と言っていいのか専門的に間違っているかもしれないけど、「同じ」に見える。

と言って、一人一人の事情は全部違う。同じパターンというのではなくて、一人一人は違うし、ケアの仕方も全員違うけれども、同じ立場ーというか、これは使うのが躊躇われるがー同じ魂ーの人たちといえばいいのか…難しいな…。

それはまた、介護支援者についても同様だ。献身的に尽くすーという言葉もあんまり使いたくないが、たった一人にたった一人が寄り添いあう時間を共に歩き、共に暮らすーその仕事を選ぶ、彼らの動機は、一体なんなのか。

『道草』に出てくる支援者も当事者も皆男性だったが、支援者は、大方すでに中高年で、一見ごく普通の人だけれど、普段わたしが見知っている「普通の男性」とは、少し違って見えた。言葉はなかなか通じない、行動パターンも読み辛い、こちらへの配慮は望めないような相手に対して細心の注意を払い、繊細に感覚を受け止めようとするー我慢強く。

『スペシャルズ!』で介護者になるのは、パリに暮らす無資格の若者たちだ。ムスリム、ユダヤ教徒、白人、黒人、中東系、女の子、男の子、様々に混在している。一人の少年の介護を任されながら大きなミスをして「やっちまった。もう辞める」とつぶやいた「居場所がなかったんだろう!?」「彼らは大事な砦なんだ」とリーダーに諭される青年ー

介護されているのは、障害のある人々だが、だんだん逆にも見えてくるー映画の中で変化するのは、当事者も介護者も両方だから…。

心の交流ーと一口にいうけれど。「心が通じる」とは、いったい全体に、どういうことなんだろうか。わたしの感覚では、「心が通じる」と実感するような関係とは、ほぼ100%「言葉ではない」感覚だ。

だからほらうまく言葉には、できない。

でも、その言葉にできない感覚を捉えた時、おそらくは人は、何らかの幸福感や満足感ー充足感を覚える。

それを「魂」とか「愛」と呼んでみてもいいし、呼ばなくてもいいとしても。

『道草』と『スペシャルズ!』に共有されているのは、その言葉にならない、言葉にすれば陳腐になり、偽物の匂いがたちまち立ち込めてしまうような、何か。人と人の間に、本来あるべきもの。失われたら、誰もが生きてはいけないようなー関係ーが「存在している」。

それを感じとることができたならば。映画を見ているだけだとしても、映画を見る意味と価値は、あるはずだ。

なぜわたしは、映画を見るのか。見たって見なくたってどっちだっていいのに。答えは、出ない。探すだけ。





























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