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戦争と平和ー「お花畑」なんかじゃないー『赤ヘル1975』重松清、『四國五郎』四國光を読む。原子爆弾投下、78年目の夏に。 

 わたしの父親は、典型的な戦後民主主義の申し子、アメリカ占領期に高校時代を過ごし、新しい憲法教育を受け、60年代には全体の進学率で1割ほどだった大学を卒業。インテリといって差し支えはないが、あんまりお金には縁のない地方公務員であった。

母も同学年で、短大を卒業し教員免許を取得、結婚まで教員を勤めていた。50年代の「*勤務評定闘争」に参加していて、すごい熱気だったと話している。二人は北海道に暮らし、家では「赤旗」を読むし配るし、新婦人新聞も少年少女新聞もあって、つまりは共産党の家だった。

 幼い頃、もちろん共産党のことなんか知らないし、ずいぶん大きくなっても気がついていなかった。周りの公務員宿舎でも小学校の職員室でも「赤旗」は読まれていたし、北海道新聞とともにどの家でも読まれているのだと思っていた(多分、朝日でも読売でも聖教新聞でも英字新聞でも、新聞なんかとってなくても、幼い子供はそう思って育つのではなかろうか)

幼年期には、デモ行進にも帯同していた記憶がある。
がーんばろー♪
突き上げる空にー〜の男のこーぶしがあるー
〜の女のこーぶしがあるー
たたかーいはここかーら たたかいはいまから〜

うろ覚えの労働運動歌や「沖縄を返せ」といった闘争歌も覚えていた。
でも、当時はそれが何だかは、理解はしていなかった。

 小学生になって留守番ができるようになってからは、参加した記憶がない。父は、言うたら筋金入りの民主主義者・思想の持ち主で、他人にイデオロギーを押し付ける行為を忌み嫌っていた。自発的考えを持てる年齢になった子どもにも、それは発動されていたのだろう。思想的な行動様式を強制されたことは一度もなかった。
中学になって共産党からは「民青に入りませんか?」と勧誘があるのだが、わたしが「絶対に入りたくない」と言ったら、父は、説得しようともせずに断ってくれた。けれども彼自身は、終生共産党支持者だったのである。

 家にはマルクス・エンゲルスの書籍があったし『資本論』もあった。『橋のない川』も中野重治の全集もあった。ロシア文学全集があり、近代文学全集、中国の『西遊記』『三国志』、ヨーロッパの『ファーブル昆虫記』アメリカの『シートン動物記』もあった。『世界の美術全集』『世界の歴史』『日本の歴史』百科事典、子どものための児童文学全集。動物図鑑、植物図鑑…狭い宿舎に本は溢れていた。

 貧しい地方公務員で、オモチャも服も学用品もねだって買ってもらえることは滅多になかったが、本に関しては、欲しいと言えば買ってもらえた。小学校高学年になると、新聞を自ら毎日読み、大人の本を読みこなせる読書力を無自覚無意識に育てられていた。

そして、ようやく学校のクラスで、よその家には「赤旗」が配れているとは限らないこと、「天皇陛下は一番偉い人なんだよ。写真を見たら拝むものなんだよ」と考える人がいると知る。
自分の家庭が普遍的なものでもなく、皆同じではないーみんなそれぞれ違うんだと。ごくごく当たり前のことに気がついた。
世の中では、それを子ども時代の終わりーと言うのだけれども。

 前置きが長くなったが、そのようにしてわたしは1960年代に生まれ育った。1975年には13歳。奇しくもマナブと同い年。
マナブとは重松清の小説『赤ヘル1975』の主人公。中学1年で東京から広島へ引っ越し。同じクラスのヤスとユキオと、そして広島カープに出会う。
1975年、広島カープはリーグ初優勝を成し遂げるのだが、さらに奇しくも、その時わたしは、北海道でプロ野球に目覚め、「週刊ベースボール」を愛読する、当時としては、かなり珍しい少女だった。プロ野球ファンは、多くの場合男子であり青年であり、おじさんだったから。

 しかし、そのほとんど半世紀後、その記憶が、一冊の小説を読むにあたって全面的にアシストするとは、誰も想像しない。
わかる。1ページ目を開いた間際から。中学生男子は全員坊主だと気合を入れて床屋にいく。カープの赤い帽子に「女の色じゃあ絶対に被りたくない」と悩むヤスの気持ち(ジェンダーがどったらこったらいう話は、この時代、一部の少女マンガにしか表現されていない。同時にそれらの少女マンガも読んでいた。思えば素晴らしいことである)
広島市民球場のぼんやりとした明かりの下。マウンドに立つ外木場投手、池谷投手、4番山本浩二、鉄人になる前の衣笠祥生、古葉監督、出てくる選手やコーチの名前まで全部覚えている。対戦相手の他チームまでも…。
13歳の記憶は最強だ。

 そして、小説のもう一つの横糸は「原爆」だ。
原水禁と原水協、どっちが共産党系なんだっけ? 調べてもなおよくわからない内部闘争分裂劇があったらしいが、ともかく家では平和教育、原爆についての教育も熱心だった。新婦人の母親大会が広島で開催されたとき、母と一緒に連れて行かれたような記憶がある…。

もちろん『はだしのゲン』は必読の書であるが、あまりに怖くて飛び飛びにしか読めなかった。目を瞑って読む感じ…。映画『はだしのゲン』は三部作で、三本とも地元の会館で上映され、見せられた。
見せられたと書くのは、自発ではなかったから。
子ども心には、見たくないのが本音であった。だって怖いんだもん。
でも今ならば言える、怖いからこそ心に傷を残す。トラウマになったっていいんだ。原爆は怖い…そう刷り込まれることこそが、大事なのだと。

いわさきちひろの絵本、『わたしがちいさかったときに』『戦火の中のこどもたち』。丸木位理丸木俊『原爆の図』小学校に上がる前に見たと思う。
とくに、いわさきの戦争下の子どもの絵、暗く鋭い目線の絵をくっきりと覚えている。

 原爆は怖い、戦争は、怖い。平和が大事ーそう教育されたとしても、実際の原爆や戦争の真実は、わかるかといったらわかるはずはない。子どもの頃からぼんやりとした葛藤というか折り合いのつかない微妙な感覚があった。

『赤ヘル1975』のマナブも同じだった。東京から来て、未だ原爆の傷跡が生々しく残る時代に、実際に生き残った被爆者の人たちに触れる。どうしていいのかわからない。わからないままに、でも知らなければならないことだと受け止め、関わり合い、思春期の成長を遂げる…。

 小説を読んでいると、現実には北海道で過ごしていたわたしと広島の少年少女たちがないまぜになり、そこにまた広島カープの優勝までの軌跡がかぶさってくる。実際見てたからテレビだけど。カープが勝つ瞬間も。小説なのかフィクションなのか記憶がループして、交錯する。不思議な、とても不思議な「一緒に生きる」体験。

『反戦平和の詩画人 四國五郎』(四国光/著)は、小説ではない、息子光による父「四國五郎」の評伝である。
1924年広島に生まれ、二十歳で徴兵、終戦後にソビエトに抑留。民主主義指導に影響を受け、帰国後は、終生、民主主義の肯定、反戦平和を希求する画家、詩人、運動家として生きた。

 Twitter(x)で塚本晋也監督が紹介していて、すぐに注文して取り寄せた。全く知らない名前だった。たまたま『赤ヘル1975』を読んでいる時で、なんだか(これは読まねばならぬ)みたいな気持ちになったのだった。

そして、やっぱり四國五郎のことはまるで無知であったが、ページを開いてすぐに知っていることばかりになった。口絵の戦争画、「原水爆禁止世界大会広島集会」のポスター。原爆で亡くなった弟の遺した日記、弟への鎮魂歌。『原爆の子』絵本『おこりじぞう』…
峠三吉の詩「父をかえせ 母をかえせー」
父母によって与えられていた記憶が奥底から掘り出され起こされる。

いや、むしろ父が生きていたら、きっと青年時代と重なりあい、語り合えることがたくさんあっただろうと思う。

 さらに『赤ヘル1975』の中でとても重要な役割を果たす「市民による原爆の絵」を発案、募集した人こそが、四國五郎だった。…五郎は、市役所に勤めながら晩年に至るまで猛烈な作業量で、広島の絵を描き続ける。

二冊の本を読んだのは、全くの偶然である。『赤ヘル…』は、ほんとにたまたま本屋で見かけて内容も知らないでジャケ買いしただけ。Twitter(x)で見たのも同じく。なのに二つの本は、しっかりと手を繋ぎあっている。広島と原爆、戦争と平和、フィクションとノンフィクションは、影になり日向になり。過去の歴史、生きた人々死んでいった人々の記憶と行動を「伝えようとする」力によって。

「戦争を起こす人間に対して、本気で怒れ」

父、五郎による、息子への言葉が、胸にぐさーっと刺さる。
今、この言葉を本気で伝えられる大人がどれほどいるだろうか…。

わたしは、本気で怒れるだろうか。

(文中敬称略)


*1957年から58年にかけて,公選制から任命制に変わった教育委員会制度のもとで,教員にたいする勤務評定が強行されたのに対して,それが教職員団結を破壊し,教育の権力統制を意図するものとして教職員組合を中心に全国的に激しく展開された反対闘争。<ネット辞書より

『赤ヘル1975』重松清/講談社文庫
『反戦平和の詩画人 四國五郎』四國光/藤原書店


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