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『すばらしき世界』西川美和監督作品ー向こう側とこちら側の上にー空だけが広く輝いているー

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Facebookに残る記録によれば、2020年10月のこと。『身分帳』(佐木隆三)帯に「西川美和監督 映画化決定」と書かれてあった文庫本を見かけ、特に深く思うこともなく買って読んでみた。

旭川の刑務所から出所してきた男の履歴、刑務所での暮らし、細かな記録が綴られながら、ヤクザの世界から足を洗って「普通の世の中」になじもうと努力する男と周囲の人々とのやりとりが淡々と描かれていく。そうして男が、ようやっと世間になじもうかとする時、物語は、突然途切れる。『身分帳』は、そこで終わりで別だての『行路病死人』が始まる。

とぼけた話だが、わたしは『身分帳』をノンフィクションー実在の人物の話だと全く思わずに読んでいた。よくこんなに本物みたいな記録文を入れなから小説に仕立てられるものだなあ。凝った構成の小説だなあ…とかって…感心しながら。

よって『行路病死人』の冒頭から主人公の山川が死亡し、作者の佐木隆三が関係者として出向き、警察から遺体を受け取り、葬儀を行い、後始末をする話を読み始めたとき、ハッと気がついて驚愕した。

この山川という男は、本当にいた人なんだ。

ただのアホな読者の勘違いに過ぎないにしても、たった1ページ前までリアルだけれどフィクションー架空の人物だと想像していた世界が、ページをめくったら実在の人間だったと、切り替えられる瞬間の。その奇妙な、コペルニクス的転換とかって昔なら言ったみたいな(自分だけの)衝撃的な感覚をどうやって伝えられるのかわかりませんが。

なぜノンフィクションをフィクションだと思い込んでいたかというと、主人公の山川という男の出生ー母親と生き別れた戦争孤児で母を思い続ける様子、出所して面倒を見てくれる身元引き受け人、地域の人、行政のケースワーカーなどの温かい人間関係によって、徐々に「真人間」に変容しようとする展開と描写が、いかにも創作的というか、主人公が純真過ぎるーように見えたからだった。

そして逆に、(これはノンフィクションなのだ!)と気がついてからは、現実に生きていた山川さんという男の生涯と作家佐木隆三氏の関わりに(こんなことって本当にあるのか)と改めて驚き感銘することになった。

物語を読むことの不思議を わたしは思った。ノンフィクションだったとしても見ず知らずの読者にとって、その物語はー虚構ーでありえる。そしてまた逆に、はじめから虚構であっても、その中で出会った者たちは、生き生きと「生きている人」になりえる。どちらがー真実ーなのか。「本を読む」体験だけに限定するならば、分け隔てすることは、難しい。

映画『すばらしき世界』は、佐木隆三が1990年に発表した小説、実在する男性モデルの背景をさらに西川美和監督が詳細に取材し、様々な資料を積み重ねた上で、携帯電話、スマホが活躍する現代の「もう一つの物語」に置き換えられている。

主役の三上は、役所広司が演じている。小説の帯にすでに役所の写真が貼られていたので、読んでいるわたしの頭の中で想像される山川は、彼の顔にならざるをえなかった。スクリーンに浮かび上がる三上との違和感はゼロだった…。

長年出入りした刑務所の中から、一般社会に出てくる。居心地は良くない。数々の暴力事件を起こし、最後に人も殺してしまった三上は、しかし真っ直ぐな男で正義感が強い。その怒りは、人が人をいじめたり、ゴミをちゃんと出さなかったり、あるいは自分に対して見下すような、尊厳を傷つけるような、物言いをしてきた相手に向けられる。言うたら彼の怒りはー真っ当な怒りーなのである。

感情を抑えられず、怒りに火がつくと暴力をやめられないー長い間生きてきた習慣から逃れられない。憧れに憧れた日の当たる世界で、三上は衝突を繰り返しながらーそれでも身の回りで人間関係を途切れさせないでいてくれる人に助けられ、生き延びようとする。

やっと見つけた、真っ当な就職先は、介護施設だった。几帳面な性格、人のために働くことを厭わない性質が、役に立ち「すごい上手ですね」と認められ、他人から褒められる。

「まるでシャブを打ったみたいだ!」

と呟きながら、はじけるように道を疾走する三上の喜びースクリーンから溢れ出るー多幸感ーは。シャブ打ったことないから、わからないけれど。三上にとっては、体験したこともない、ただ普通に暮らす生活する中で、初めて受けた光のシャワーだったのだと想像することはできる。

映画館の暗闇の中で、わたしは、どうしようもない切ない気持ちで、その美しい、美しいシーンを見ていた。すでに涙は止まらなくなっていた。原作を読んでいたから。ラストは、必ず決まっているとしか思えなかったから。西川美和監督が、三上ー山川さんの最後を、原案のフィクション映画だからといって変更するとは、到底思えなかったからだ。


ここから先は、ラストシーンへの、わたしの解釈になる。映画を見てない人に対しての配慮で「ネタバレ禁止」というのがある。でも、この文章は、それをやったら完結しない。ご勘弁ください。

介護施設で働き、生きがいを見つけた三上は、怒りを見せなくなる。

あなたは真っ直ぐ過ぎるのよ。

あちらの世界では、我慢ばかり。そんなに面白いものでもないらしい。だけど空は広いっていうよ

時には逃げることも大事なこと

なんにでも首を突っ込んでいたら 生きていかれないー

三上を助け、信頼する人たちから、様々に声かけされる真っ当な暮らしを続けるための作法をー彼はまた真っ正直に守ろうとする。

楽園かのようだった介護施設の中で見てしまう。若い同僚へのいじめー障害のある若者への差別、刑務所帰りの人(三上のことではない)への侮蔑ー

かつての、いや本来の三上であれば、怒りに燃え、正義の制裁を加えたはずだ。しかし、彼は、その思いを飲み込んでしまう。ぐっと必死の思いで…。この世界で、生きていくために、必要なことだから。信頼してくれる人たちを裏切ることはできないから。

三上の心情ー世界の捉え方、人間関係への作法は、ヤクザの時代から何も変わっていないー仁義を守ってー怒りと正義と 彼にとっての人として正しく、成すべきはずのことー言い換えれば「自分」そのものを飲み込んで、生きてみようとしたときー

映画は、小説『身分帳』と同じに、唐突に、幕を閉じる。


ーすばらしき世界ー

いったいそれは、どこにあるのか。

三上が渡ろうとした川は、どこにあったのか。なかったのか。

あちらとこちらがあるのだとしたら。三上にとって、いや、わたしたちにとって、どう違うというのかー

見上げる空だけが、青く、高く、広がっている。














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