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ヘルパーさんと移動支援でお出かけしてみた

去年から、移動支援でヘルパーさんとお出かけするようになった。いままでヘルパーを利用したことがなく、生まれて初めてのヘルパーだった。これまでにヘルパーさんと私で、映画館や美術館など様々なところへ行った。いまのヘルパーさんとは、かれこれ一年半ほどの付き合い。体力的な問題で月1〜2回ほどしか出掛けられないが、そのときに行きたいなと思う場所へ連れて行ってもらい、外出を楽しんでいる。

でも、いったいなぜヘルパーさんを利用することになったのか。そして、どのようにヘルパーさんとお出かけをしているのか。そこで、今回はヘルパーさんとのお出かけについて書いてみることにした。




なぜ、ヘルパーさんを利用することになったのか

ヘルパーさんを利用する前は、いつも母が私の車いすを押していた。私は持病のせいでひとりで出掛けることが出来ない。そう、私には、線維筋痛症と慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)という二つの病気がある。全身の激痛や極度の疲労感などの症状で、ほとんど寝たきりだ。私の病気は、インフルエンザなどで39度くらいの高熱を出した状態と似ている。なので、ほんの少しなら歩けるものの、基本的には車いすに乗っていないと移動がつらい。だから、外出のときは車いすの角度を変えられるティルト式という特殊な介助式車いすに乗っている。そのため、誰かに車いすを押してもらわないと出歩くことができないのだ。

あれは、たしか2020年の1月。病気が悪化して、私が車いすになった頃。ちょうどそのとき、コロナが流行り出す直前だった。そのあと、緊急事態宣言などもあって、外出することがあまりなかった。なので、私が車いすになったばかりの頃は、母が「まだ私が動けるあいだは介護をやる。」と、張り切っていた。けれど、世の中がコロナで騒ぐことも少なくなり、私も外出するようになっていく。「月に2回ほどなら、自由にお出かけ出来るね。連れて行ってあげる!」そんなふうに母は話していた。そうして、母と一緒にお出かけのルールを決めた。だがしかし、それ以外に月に何回かある通院日にも、母は私を連れて行く。さらに、毎日の介護もある。それでも、働きながら介護する母。だが、どんなに頑張っていても、限界がある。ある辺りから、母の疲れ切った表情を見かけることが増えた。また、「暇な時間があったら、休みたい。」と言うことも多くなった。そんな母を見て、何もしないでいることはできない。母を助けたい。けれども、母に介護されなきゃ、私は生きていけない。私の病気が私だけじゃなく、母まで苦しめる。どうしたらいいのだろう。

そんなときに、ヘルパーが浮かんだ。たしか、前に役所へ手続きしに行ったとき、「移動支援のヘルパーを利用できますよ。」と言われた気がする。そうして調べてると、利用可能なことに気づく。いままで介護と程遠い生活をしていたので、ヘルパーを利用したことがなかった。ヘルパーに対してあまり良いイメージはないけど、そんなことを言ってられない。とりあえず、やってみよう。これで少しでも母が楽になれるなら、利用したい。

けれど、私からヘルパーの話をしても「いまはいらないよ。」と、気を遣って断るかもしれない。そこで離れて暮らす妹と相談して、私から直接話すよりも妹からのがいいだろうと、妹からヘルパーの話を母にしてもらった。やはり、限界だったらしく、母もヘルパーを使ってみたいと言った。そうして、いまのヘルパーさんに出逢い、定期的に外出を手伝ってもらうこととなった。



いざ、ヘルパーさんと美術館へお出かけ

しかし、ヘルパーさんとお出かけといっても、なかなか想像しにくい。私もいざヘルパーさんとお出かけするまでどんなふうになるのか想像できなかった。そこで、ヘルパーさんとお出かけするとどんな感じなのか、美術館に行くと想定して書いてみよう。

まず、ヘルパーさんと交通機関を使って美術館に到着する。ヘルパーさんの分の入場料や交通費などは、事業所によって異なるかもしれないが、基本的にこちらが払う。そうして、いざ展示へ。「もうちょっと遠くからこの作品を観たいです。」など、具体的にヘルパーさんに指示をして作品を観ていく。作品の鑑賞中は、観るルートをどうするかなど聞いてくるぐらいで、それ以外では基本的にヘルパーさんから話しかけてこない。そして、次の作品を観たいなと思うときには、ヘルパーさんはここぞというタイミングで車いすを押す。母よりもタイミングがいいので驚く。なぜ、こんなにも上手いのだろう。あまりにも絶妙なタイミングで押してくれるので、どうやっているのか聞いてみたところ、首の動きや視線の先とかでなんとなく押すタイミングを決めているとヘルパーさんは言っていた。さすがプロ。

けれども、いくらヘルパーさんが上手くやってくれていても、やっぱり美術館はひとりで楽しみたい。誰にも邪魔されず、ひとりで作品を鑑賞しながら、その世界に浸っていたい人間なのだ。だが、ヘルパーさんがいるため、ひとりで出掛けたときのように楽しむことは出来ない。だがしかし、それは母と出掛けているときもそうなのだ。どこに出掛けようとしても、常に誰かが近くにいる。けれど、寝たきりである以上、そうしなきゃ出掛けることができない。なので、車いすになってから、私はひとりで楽しむことを諦めた。その諦めを母のときにすでに経験済みだったからこそ、ヘルパーさんを利用しようと自ら思えたのかもしれない。

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さて、気がついたら、お昼の時間になっていた。事前に調べておいた美術館のカフェに連れて行ってもらう。さて、お腹が空いてご飯を食べたいと思ったとき、ヘルパーさんはどうするのか。勿論そのときは、ヘルパーさんとお昼を一緒に食べることになる。食事自体は自分で出来るものの、ヘルパーさんに一緒にお店に入ってもらわないと、車いすを動かしたいときに困るので、ヘルパーさんと同じテーブルで一緒にお昼を食べることになる。

私のヘルパーさんは基本的にはひととのコミニケーションが好きなひと。ときどきお喋りしながらご飯を食べる。そういう私は、ひととのコミュニケーションが苦手だ。もし、相手に申し訳ないことを言っていたらどうしようと言った後でくよくよ悩むタイプだ。

だが、ヘルパーさんとはあくまでお金での関係。こちらが変な発言をしても多めに見てくれる。つまらない話をしていても、向こうにとっては仕事なので聞いてくれる。もちろん、ヘルパーさんに黙っていて欲しいときは口に出してそう言えば、黙っていてくれる。なので、ある意味で割り切った関係でいられる。だから、そこまで苦痛ではない。むしろ、私のような寝たきりだと家族以外になかなかひとと会う機会がないため、定期的に会ってくれる良き話し相手となるのだ。ひとはあまりにも社会と接する機会が極端に減ると、孤独に耐え切れず、誰かと話したいと飢えるようになる。まさか、ひととのコミュニケーションが苦手な私がヘルパーさんと話すようになるなんて思ってもいなかった。

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よし、お昼も食べたし、あとは帰るだけ。すると、目の前にフリーペーパーが置いてある棚があった。私は、美術館にある次回の企画展の告知などのフリーペーパーを集めるのが趣味。母と美術館に行く際は、何も言わなくてもフリーペーパーのところへ向かってくれる。しかし、ヘルパーさんは「あそこのフリーペーパーが欲しいので、一枚取ってください。」などと伝えて指示しない限り、フリーペーパーの前を通り過ぎてしまう。だから、母とのお出かけで暗黙の了解となっていることを言語化して、ヘルパーさんにきちんと伝えないといけないのだ。「伝えるの面倒くさいし、今回はいいや。」と諦めていると、ストレスが溜まるだけ。とくに私みたいなオタク気質な人間は、趣味のことになるとそれなりにこだわりがあるはず。それをヘルパーさんに頼まなきゃいけないからって妥協したくない。だから、ヘルパーさんと出掛ける時は、言語化して相手になるべくわかりやすく伝える能力が求められる。

そうして、地元の駅で待っている母のもとへ向かい、ヘルパーさんとお別れする。いつもだいたいこんな感じでヘルパーさんとお出かけしている。



その後、新たな課題

ヘルパーを利用するようになって少し経ってから、体力的に余裕ができたのか、母は趣味の編み物をふたたびやり始めた。ヘルパーを利用する前は、仕事と介護の両立で余裕がなくて「いつか編み物をできたらいいな。」と、よく嘆いていた。また、ヘルパーをキッカケにそれ以外のことも、母が余裕を持てるように色々と見直して変えていった。それが上手くいったのか、いまでは新しい趣味を見つけたり、長年していなかった読書をしたりしている。そのことで嬉しそうに話る母。そんな母を見て、ヘルパーさんを利用してよかったなとほんとうに思った。

そういう私も、母だと車いすを押すのが大変だからって遠慮していたところをヘルパーさんになら任せて行けるようになり、ストレスが減った。なにせ、ヘルパーさんは、仕事として介護に関わっている。だから、母なら遠慮してしまうことも頼みやすい。当事者じゃない、第三者の存在は重要だなとつくづく思う。

もちろん、問題もある。いまのヘルパーさんはあくまでも日中で、夕方までにお出かけを終わらせないといけない。だから、ヘルパーさんに頼んで外で夕飯を食べたいなとなると、また別のヘルパーさんにお願いしなきゃいけないのだ。だが、いまのヘルパーさんの事業所のひとが言うには、その条件でやってくれるひとはなかなかいないらしい。だから、母にはヘルパーさんが対応できない部分を補う形でやってもらっている。でも、将来的に母が介護できなくなったとき、私はどうなるのだろう。夜に出歩くことが出来なくなるのだろうか。たまに行くトークイベントとか、行けなくなってしまうのだろうか。そのようなぼやんとした不安が残る。

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むかし、まだ自分が元気だったころ。祖父母が施設などで介護されるところを見て、いざヘルパーさんを利用する側になったらどうしようと悩んでいた。そのころの私は「そもそも、ひとと接するのとが苦手だし、触られたくない。最悪だ。絶対に無理だ。」と、介護される自分を想像するだけで嫌で仕方がなかった。

だが、ひとはどんなに嫌でも、良くも悪くもその環境に慣れていく。母やヘルパーさんなど、誰かに助けてもらうのが私の日常となり、介護される環境にどんどん慣れていく自分がいる。あんなにひとりで出掛けたいと強く思っていたのに、時が経つにつれ、その欲も以前よりか弱まってきた。なんだか、大切だった何かを失ったようにも感じる。でも、そういうふうに生きていくしかないのだ。それが良くも悪くも、いまの私にものすごく影響を与えているのだと思う。だからこそ、この状況を言葉に残しておきたい。



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