南からの逃亡
「そういう踊り方は好くないわ」文字通り眉をひそめてその女性は言いました「あなたは外国の人だから知らないかもしれないけれど、そんなふうに足を引っ掛けたりするのは売春婦だけよ。しない方がいいわ!」
ブエノスアイレス郊外のカフェの一画、昼下がりのミロンガでダンスフロアからテーブル席に戻った私に近づいてきたその女性は、英語でそう言うと足早に店外に出て行ってしまいました。突然のことに私はあっけにとられ、混乱しながら、一緒に来たアルゼンチン人の友達に聞きました。……私、何かいけないことした?
友達の狐につままれたような顔と、そんなの気にすることないわよ、というゼスチャーに少し救われたものの、一体何がその人の気に障ったのか、やはり気になりました。
彼女が言っていたのはおそらくガンチョのことです。ガンチョはリーダーとフォロワーが素早く足を絡ませるステップで、今ではどこでも踊られていますが、20世紀初めタンゴが大流行した時はそうではありませんでした。下町から起こったタンゴはすぐに上流階級も巻き込んだ大ブームとなりましたが、ガンチョを含むいくつかのステップは下町風で下品、と上流のサロンでは踊られなかったのです。
また、リーダーが脚を準備して、ほら、とフックを促しても、今は結構、とフォロワーが脚をかけない場合もあるため、Yes/Noの暗号とも取られ、下町の怪しげな界隈では、売春婦は客と踊りながらガンチョでダンスフロア外のビジネス交渉をする、という伝説ができました。(ちなみに、フォロワーがする・しないを最終決定するステップは他にも多くあります。)
「伝説」を裏付ける事実もあったかもしれませんが、それは下町のミロンガの伝説の一部でしかありません。下町で踊られていたタンゴにはガンチョも含めて足を触れ合わせたり、交差したり、跳ね上げたりするステップがたくさんあり、それが華やかで生き生きした魅力を生み出していました。そのエネルギーに惹かれて、上流の人もこっそり下町のミロンガにやってきたのです。なので、彼らは(自分たちのサロンでは踊らなくても)そういうステップのことは知っていたし、社会の階級構造が崩れるにしたがって、それら下町風のステップはサロン・スタイルのダンスに吸収され、今ではアルゼンチンタンゴの標準的なステップとなっています。
……だからガンチョをしても、私を売春婦と思う人はいないわよね? とーぜんでしょ、とあきれたように大きな目をグルンと上に回した友達の顔を見て、私は続けました。じゃあさ、どうしてそんなことを心配して、わざわざ忠告までしてくれる人が、イマドキいるのよ?
答えは、アルゼンチン人すべてがタンゴのそういう歴史を知っているわけではないから、です。
アルゼンチンに行ってすぐ明らかになったのは、アルゼンチン人すべてがタンゴファンではない、という事です。(んなこと行かんでもわかるやろ、ですが、これがタンゴ熱のコワいところで😅)ブエノスアイレスの一般市民が気にかけているのは、贔屓のサッカーチームの成績だったり、週末のバーベキュー用の肉の値段だったり。教育もあり、いい職業についている人たちに、タンゴを習っているんです、なんて言っても、あ、そう、で話題はミルトン・ナシメントやラテン・ジャズに移ったり。
さらに、あの大きな国のすべての地域でタンゴが盛んであるわけではない、のです。(これも😅ですが、タンゴ観光でブエノスアイレスに来てミロンガ漬けだと、アルゼンチン中がそうなんだという錯覚が……)実際のスケール感は、小林萌里さんがnoteの記事で見事に言い表しておられますので、その一節を引かせていただくと、
……というわけで、ブエノスアイレス市を含むラ・プラタ川沿いではタンゴはメジャーですし、他でも大都市部の観光関係者はタンゴ大歓迎です。一方、市内でもタンゴは後ろ向きで嫌い、とはっきり言う人もいたし、タンゴみたいな「エセ芸術」じゃなくて「本当の」芸術家もこの国にはいるのよ、とクラッシックの音楽家の名前をこれでもか、挙げてくれた人とか、ミロンゲーロという単語を「ヤクザ者」と言う意味で使うマダムとか、ポルテーニョの無意識レベルのタンゴのイメージは、実はネガティヴなんじゃないの?? と勘繰るぐらいでした。
土産物屋にあふれるサッカーとタンゴグッズ、忙しく行きかう市民や観光客たちで溢れる通りからはずれたとたんに感じる荒廃の陰。このなかで能天気に、タンゴを習ってます、なんて言ってる私が一番ズレてる? ミロンガでの「忠告」はできるだけ見ないようにしてきた疑いを一気に解き放ってしまったようでした。
「あいつらは救いようのない馬鹿だ」
……と言ったのはあるタンゲーロです。彼はアルゼンチンタンゴのダンサー・教師・振付家として素晴らしい人なのですが、アルゼンチン国外を本拠にしていて、国内のタンゴシーンには心底幻滅している、と言いました。なぜなら、タンゴのダンスとしてのこれからの発展に興味がないから、おまけに発展に向けての動きには「反伝統勢力」のレッテルを張って排斥しようとするから、それに拝金主義、縁故主義、権威主義、等々、母国のタンゴ関係者への厳しい言葉が続きました。
「パリでもベルリンでもどこでも、僕は同じように踊って、教えて、振り付けてきたよ。そこの人たちは、実験的なことにも『面白いね、どうやるの? やってみよう!』と興味を持ってくれた。でも、ここでは否定ばかり、ほとんど憎しみに近い目で見られた……。そのくせ(外国で成功して)戻ってきたら手のひらを返したような扱いだ」でもさ、ピアソラなんかが叩かれた時代と違って、今ではタンゴに対する理解も進んだし、あなたも尊敬されているじゃない。「尊敬? ニューヨークやパリから帰ってきたら神棚に祀り上げてお終い。何も変わらない。あいつらは……」
文字通り吐き出すように言った彼の顔と一緒に、あの時言葉にならなかったものがポコ、ポコ、と意識の表面に浮かんできます。
ダンスの発展にはたくさんのものが必要です。そのダンスの今までがわかっていて、どの方向にブレークスルーが可能なのかを分析する能力、わかったことを理論化して他の人も踊れるようにする普遍化力、実際の作品の制作と公演、それを可能にする資金やサポート組織、次に伝えていくための教育、記録……。
とても一人や二人では無理だよ。あなたの「挑戦」を受け入れてくれた国の人たちは、芸術を組織的に発展させることに慣れていて、あなたのプロジェクトも「一つの可能性」としてサポートしてくれたのだろうし、上手くいけば、バレエのワガノワ・メソッドやモダンのグラハム・メソッドのように、ある意味普遍的なタンゴのメソッドができるかもしれない。でも、それがあなたが目指しているものだったのかな?
少し寒い7月の石畳の道を、陽だまりを選んで歩きながら、思考はどんどん拡散していきます。ポジティブな事は少ないけど、ここにはまだこんなにタンゴがあるじゃない……。あなたをこき下ろした人達も、タンゴを大事に思っていなかったわけじゃない。むしろその逆。タンゴは南米の人と大地の、時には矛盾する波動が重なり合ってできた。ここではどこでも、この石畳の表面からでもその波動が感じられる。あなたのようにタンゴに近い人が、これから離れたままで大丈夫なのかな?
熱心さのあまり煙たがられるほどだった伝統至上主義の人たちも一人、また一人とミロンガから姿を消し、タンゴは世界遺産として守られる立場になりました。表面的な華やかさの下のタンゴの波動は力強いとは言えません。アルゼンチンに戻るつもりはない、と言った彼、そして他のたくさんのタンゲーロスの顔に「亡命」という言葉が重なります。誰かの歌ではありませんが、彼らもいつかは「南」に帰ることができるのでしょうか?
©2024 Rico Unno