#アドラー心理学 から学ぶ「ほめない日本語教育」
授業の時に「褒める」のが苦手だ。だからといって「厳しく指摘する」のも苦手。
というのも、「褒める/誉める」という言葉には「褒章」とか「栄誉を称える」のような「上のものが下のものへ示すもの」という雰囲気があるからだろうと思う。「指導する」教え方もしかり。
そんな中、以前から愛読している「アドラー心理学入門」をパラパラと眺めていた時に、ほめることに関する考え方に目がとまった。
誉めるのではない。適切な行動に注目する。
人々は私の仲間である。
つまり、「教師←→生徒」が「上←→下」という固定された役割であれば、「誉める←→褒められる」という「賞」も、厳しく指導するという「罰」もあり得る。でも、日本語教師は生徒にとっては「日本語が自分よりも話せる仲間」。その仲間から与えらるべきなのは「賞罰」ではなく、「適切な表現」や「不適切な表現」に対する「フィードバック」であるはず。
つまり、日本語教師にできるのは「指導」ではなく「通じる/通じない」や「こちらの言い方のほうがよりわかりやすい」といった、母語話者からのフィードバックということなる。
そう考えると、正直心地いい。
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これまで10年近く日本語を教えてきた。でも、単に生徒たちより数十年先に日本語に触れてきただけの日本語母語話者である私が、どんな大きな顔をして、生徒に偉そうに日本語を教えているんだろう、といつも思ってきた。
何千年という歴史が紡いできた日本語。きっと50年前と50年後では「正しい日本語」も違っている。日本語教師が教えられるのは今この瞬間、大多数の人々に通じやすいであろう「日本語(とみんなが思っている言語)」に過ぎない。
そう考えると、「その表現だと私は理解できます」というフィードバックを、それぞれのレベルに合わせてわかりやすく伝えていけばいい、ということになる。そして、その生徒の語学力の進歩について「友人として、具体的に評価する」ということになるだろう。
さらに、「ほめない日本語教育」は、手抜きの日本語教育でも、素人の日本語教育でもない。適切なフィードバックを与えるためには、教師の側の知識も相当必要だ。単に正しいか間違いかを指摘するのでなく、友人として相手にわかりやすく説明する必要があるから。
ということで、私はこれからも「日本語を指導する教師」ではなく、「友人としてフィードバックする母語話者」になろうと思います。
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参照したのはこちら。「嫌われる勇気」よりも読みやすい。
「嫌われる勇気」はAudible版もあります。
アドラー心理学は日本語教育にも使えますね。
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