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【映画レビュー】インド映画「めぐり逢わせのお弁当」

「好きな食べ物はなんですか?」

日本語教師をしている私は、初級のクラスではこのフレーズで会話練習をすることがよくある。その国の文化について知ることができ会話もふくらみやすい。「好きな日本の食べ物はなんですか?」などと発展させることもできる。

最近、インドの学生を担当している。「好きな食べ物はなんですか?」という質問に対し、「パニーニです」、「ビリヤーニです」と、インド料理の名前を言う学生が多い気がしていた。「インドの学生って自国の料理がすきなんだなあ」と。

そんな中、Amazonプライムでたまたま見つけたインド映画に目が止まり、見てみることにしたのは、この「インド」という要素と「お弁当(食べ物)」という要素の組み合わせに関心があったからに違いない。

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今作品の舞台はムンバイ。主人公のイラは一人の主婦。夫と娘の三人ぐらしだが、夫婦関係は冷え切っている。毎日の日課は夫のお弁当作り。インドの大都市では、「ダッバーワーラー」という弁当配達業のおじさんに頼み、できたての弁当を昼食に間に合うように職場に届けてもらうのだ。しかも、なんと6万個に一個しか誤配送がないというこの優秀な弁当配達システム。しかし、主人公イラの作った弁当が、間違って一人の男やもめサージャンの元に届いてしまうことからこの物語が始まる。サージャンはお弁当の感謝の手紙をイラに書き、イラのもとには見知らぬ男からの手紙が届く。その後、奇妙なお弁当と手紙の往復が続き・・・。

その後のストーリーはネタバレになるためここでは控えさせてもらうが、物語全体で、都会への疲れ、家族関係のすれ違い、家族の死、というやや重いテーマが扱われる。たしかに、扱われるトピックスは全体に明るくはない。でも、絶望感もない。どことなく不思議な希望にも満ちている。なんなんだろうこれは、と不思議な感覚に包まなれながら見終わってしまった。

その秘密は、要所要所に挟み込まれるインド料理、そして食卓を囲んで美味しそうに頬張る人々のシーンからくるものなのかもしれない。美味しいものを食べる人は不思議とあまり不幸には見えないものだ。作品中には、食べ物や香辛料の香りをクンクンとかいでから食事を始めるシーンが何度もある。食べ物を「むしゃむしゃ」「くちゃくちゃ」と食べるその咀嚼音もしっかりと、そして思いのほか長めに撮影されている。インドの人々は食べること、そして家族や友人と食卓を囲むことをつくづく愛しているんだなあと、ひたすらお弁当を頬張る男を見ながら感じてしまった。

さらに、食べているものを隣の人に勧めたり、逆に「それ食べてもいいか」と聞いたりもすることが新鮮だった。私自身は人の食べているお弁当を「食べていい?」と聞くような経験は、小学校の遠足以外には思い当たらなかった。

映画を見ながら、食を囲んで人々は語り、確実につながっているのだと強く感じた。

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思えば、料理とは最も優れたコミュニケーションツールなのかもしれない。食卓を囲んでのコミュニケーション。作り手とそれを食べる側のコミュニケーション。料理を介して人は語らずにはいられない。「同じ釜の飯を食う」という言葉もあるが、料理を介することで親しくなることはよくある。

映画は料理をめぐる人々の孤独と愛情のすれ違いを描いている。都市化していくムンバイの人々の心の孤独は深いのかもしれない。でも、スマホがない分、まだマシかなとも思ってしまった。映画には時代設定の都合なのかスマホは描かれていなかった。今や家族で食卓を囲む人々の手にすらスマホが握られている。通勤電車の中では、誰の手にもスマホが握られている。実のところ、誰かとのつながりを求めて握りしめるスマホは、人々の孤独を埋め合わせるのがそれほど得意ではない。そのことに我々も薄々感づいているのに、なぜかやめられない。せめて食事時くらい、スマホの電源を切って、食卓に並ぶ料理を五感で味わおう、家族と会話しよう、と思ってしまった。人と人との絆を思い起こさせる、そんな不思議な魅力を持った作品だった。

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