見出し画像

「ブラックパンサー ワカンダ・フォーエバー」感想:カタルシスの向こうにある悼み

ヒーロー映画はいくら悪側の理論が全うなものであれ最終的に拳をもって悪を否定することに行き着く。サノスにもっともな理論と原理を与え観客に感情移入させた「インフィニティ・ウォー」は「エンドゲーム」において中身の無いサノスを敵に据え、それを倒すことでカタルシスを産み出した。この展開については一切文句も意見も無い。長い長いサーガにピリオドを打ち込む最良の終結であったはずだ。

ところで、MCUは常にメタ的に自身の作品のアンチテーゼとなるテーマを持った作品を提示してきた。コスプレ×CG技術の粋を結集した「エンドゲーム」の次作に映像技術と詐術を巧みに操る敵を配置した「スパイダーマン ファーフロムホーム」はその典型だろう。「戦うこと」から生まれるカタルシスや興奮を削いだ「ワカンダ・フォーエバー」は何に対してのアンチテーゼだったのかを考えると「拳と拳のぶつかり合いの顛末を描きスッキリする我々」に対して、なのだろう。

戦争という負の営みがより見えやすい形で前傾化した現在、その「戦い」を描くことは非常にリスキーである。誰かが誰かを倒すことに自覚的にならざるを得なかったことは容易に想像がつく。今作においてワカンダという国が対峙する相手は大海の中に棲む王国だ。外部からの侵略を受けて海へ潜らざるを得なかった一族であり、対外的な交流を絶ったワカンダと共通する要素を多く持つ国家だ。ワカンダにも海の王国にも真っ当な倫理と正義があり、どちらにも戦う理由があることを痛々しく、克明に描きながら最終決戦へ突入する。娘を奪われた母親の怒り、安全な地を脅かされてしまうというネイモアの倫理、母親を殺された娘としての怒り。本編を覆う戦うことに対する苦々しさがもたらす暗いトーン自体がMCU製作陣の真摯さの表れである。

得意の科学力でハーブを生成した故ティチャラの妹であるシュリは兄を失い、母を失い、ネイモアとの邂逅も経てしまった。しかしワカンダの伝統を信じてブラックパンサーとしてスーツを纏える高潔さも持てていない。そんな倒錯の中ハーブを口にし、常世と現世の中間で出会ったのがキルモンガーであったのは「サプライズ」を排した今作において唯一と言える「サプライズ」要素だ。ビジネス主義でワカンダの体制に半ば嫌気が指しているキルモンガーとシュリは重なってしまう。キルモンガーに出会い心が乱れたシュリは高潔さよりもエゴイスティックな復讐心に囚われる。

ヒーロー映画、そしてそのオリジンを描く一本においてカタルシスはスーツを着る瞬間に生まれる。そして覚悟と戦闘力を持ってヴィランを倒す。だが本作はそのシーンからカタルシスや爽快感はあえて削がれている。相手のフィールドに赴き弱点を冷酷に突くワカンダの戦士たちとネイモアを倒すために一点突破した戦い方を選んだブラックパンサー=シュリはまるでヴィランのように映る。「正しさ」の欠如が画面に提示される。つまりどんな形であれどんな理論であれ武器を取ることに反省や内省の念を持ち合わせる必要があるということ。Revenger(復讐者)ではなくAvengerとしてスーツを着ること。

ネイモアを刺す直前に我に帰ったシュリは互いに神域を侵さないという条件のもと和平を結ぶ。相手を倒すという爽快感はない。もう140分くらい我々は物語の煮え切らなさにスッキリしないし、主人公らはティチャラの死に戸惑い私人としても公人としても家族としても狼狽したままだ。なんとか戦いに一区切りがついても欧米諸国とは緊張状態が続く。その空気に柔らかな風を吹かせたのがラストシーンだ。

コロナ以降のMCUで見ることが出来なかった青い海と空の下の砂浜でシュリは兄に想いを馳せ改めて兄に向き合う。悲しみは癒えないし、王として向き合う世界はいまだに厳しい。でも言葉やロジック抜きに「we gon' be alright」と思えるのはカメラに映る映像の雄大さが理由に他ならない。兄の服を燃やすことができた彼女の涙と静かに生きるティチャラの息子の名乗りに嗚咽が止まらなかった。自分や過去と向き合うこと。「ドライブマイカー」であり「すずめの戸締り」でありMCUフェーズ4の命題であるシンプルで真摯なメッセージの普遍さはこの映画の着地点としてこれ以上ないものだろう。

「チャドウィック・ボーズマンの死」という現実を物語に取り入れてしまうことは、非常に危うい。安易な感動を生み出すプロットを作ることは容易だっただろう。ただ、そこから逃げず、必要以上のエモーショナルも面白さも興奮をも敢えて作り出さなかったMCU製作陣のバランス感覚と悼みへの自覚に対して賛辞を送りたい。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?