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ぼっち・ざ・ろっく!感想:『ぼっち・ざ・ろっく!ファイブエム』

歪んだ残像を消し去りたいのは
自分の限界をそこに見るから
自意識過剰な僕の窓には
去年のカレンダー 日付けがないよ

「リライト」

妄想と自意識の狭間でぐちゃぐちゃになった主人公がなんやかんやバンドを組んでなんやかんや美しく舞台から飛び降りる。このあまりにもありがちな物語は10年以上前の世界から届いた主人公への宛書のような「転がる岩、君に朝が降る」のカバーとファーストアルバム「結束バンド」をもって幕を閉じた。

「ぼっち・ざ・ろっく」はどこまでもフィクションに留まっているところに美点を見出すことができる。下北沢の風景、ライブハウスの実態、楽器屋さんの内装、と外枠だけは現実を取り込みリアリティを出しているが、その中で12話に渡って物語を生み出す彼女たちはいかにも物語的で、健全で、逞しい。だからこそ、そのフィクション性はいくつかの事象を本作とを繋げた。アジカンと本作、「あの頃」のバンドシーンと本作、ロックという概念と本作。その3点を軸に「ぼっち・ざ・ろっく」を振り返ります。


アジカンと「ぼっち・ざ・ろっく」

憂う春、芽吹かぬままに
世界と繋ぐのをよしてしまう
塞がる手立て
揺れる針進まぬままに
誰か拾うのを、そして繋ぐのを待ってんだ

「自閉探索」

主人公のゴッチ、ならぬぼっちは典型的な「コミュ障」「ぼっち」「陰キャ」である(そういう風に露悪的に・強調して描写されている)。彼女の社会性はインターネットのみに開かれていた。また、彼女がギターを弾いていた襖の中の世界はアジカンの最初期のアルバム「君繋(キミツナギ)ファイブエム」において描かれていた「5m」の世界に通じるだろう。ただ、彼女の根源にあるのは「繋がりたい」欲望であった。この「5m」についてASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤は2015年にこう述懐している。

俺の「半径5メートル」は間違いなくその先に広がったダダっ広い世界というか宇宙というか正体不明の何かというか、なんでもかんでもと繋がっていて、あるいは繋がっていないけれど切り離されていない、ということを前提に、ずっと書き続けられている。

Vo.ゴッチの日記 2015-10-06

アジカンの「5m」の世界が5mの世界の中にいる「君と僕」で終始しなかったように、「ぼっち・ざ・ろっく」も襖の扉の向こうへ、あるいはインターネットの先へどうにかして辿り着こうとしている。明確に「繋がりたい」という欲望から来るどこか開けた空気は作品の魅力を担保していた。自室や自身の世界に引きこもりディスコミュニケーションへ逃避する「エヴァンゲリオン」とは一線を画すヘルシーさである。

結ばれぬ点と線
切実な遠吠え
涙流して「誰か応えて」
何処からも返事はないよ

「ライカ」

そういう点で「転がる岩、君に朝が降る」が物語の最後に彼女たちの演奏で鳴らされたことは「自意識と他者の希求の間でぐちゃぐちゃになるぼっち」の去就として完璧に近いだろう。

僕らはきっとこの先も
心絡まって ローリング ローリング
凍てつく地面を転がるように走り出した

「転がる岩、君に朝が降る」

徐々に社会と対峙する中で狼狽し続けていたぼっちと徐々にバンドとしてシーンや未来を背負うようになった4thアルバム「ワールド ワールド ワールド」には通底するムードがある。本編の最後のシーンはやさしい朝の光の中でギターを担ぐぼっちであった。きっとこの後もバンドメンバーとの生き方の違いに対して腰を引いてしまうだろうし、バンドが大きくなるに連れて白目を剥く頻度も増えるであろう。そんな未来さえひっくるめた彼女の未来を照らすこの最後のシーンこそが、「転がる岩、君に朝が降る」で歌われている、''君の孤独を全て暴き出す朝だ''だ。そして「ワールド ワールド ワールド」は下記の曲で幕を閉じる。

何もない君が
逃げ入るその自意識の片隅から
さぁ飛び出そう
胸躍るような新しい世界

世界!
世界!
世界!

「新しい世界」



「あの頃」への憧憬と「結束バンド」アルバムレビュー

「結束バンド」の1stアルバム「結束バンド」は特定の層に刺さりすぎる仕組みとなっている。それは(現在21歳の私よりも少し上の世代が中心ではあるのだろうが)2000年代から10年代中頃にかけて「邦ロック」と呼ばれた、あるいは揶揄された音楽を熱心に聴いていたリスナーである。ロッキンオンジャパンがギリギリ市民権を得てなくて、ストリーミングサービスがまだ上陸しておらず、日曜日の朝9時くらいからテレビ東京でカウントダウンジャパンが放映されていたあの頃。

「あの頃」の音楽に共通する記号を挙げる。

・ボーカルに負けないキャッチーなギターリフ
・どこかのパートで4つ打ちが取り入れられる
・リズムに乗せにくい日本語でリズムに乗る面白さ
・1サビでアレンジを変える
・ギターソロを弾き倒す
・ギターソロのあとでギターとボーカルだけになる
・アウトロでイントロと同じリフ
・あわよくば終盤で転調
・倒錯の先で比較的前向きなメッセージを歌う内容
・ベースラインはテクニックを見せつけるか、ルート弾きか
・イントロを省き、アルペジオとボーカルのみで曲が始まる、同時にハイハットが等間隔でリズムを刻む…

勿論例外や外れ値はあるだろうが、こういった要素を満たす音楽に対してとてつもないノスタルジーと、相容れなさと、少しの安心感を今は覚える。その要素が結束バンドの1stアルバムには存分に詰まっている。それは小学校の卒業アルバムをめくるような恥ずかしさを伴い響く。

収録曲をやや駆け足気味に、そのリファレンス先となった音楽を妄想しながら、見ていく。比較的早いBPMで「光のファズ」という言葉が印象的なオープニングトラック「青春コンプレックス」。一拍置いて高速4つ打ちのサビへ突入する展開は上記の「あの頃」の記号に沿っている。ただ、私が思い出したのは下北沢からお茶の間へ辿り着くも「閉じた」空気を失わなかった唯一無二のバンド・BUMP OF CHICKENの「グロリアスレボリューション」で、バンド全体がギターリフを推進力として進んでいく様に結束バンドの持つ「あざとさ」を越えた「バンドとしての美学」を感じてしまうのは少々「ぼっち・ざ・ろっく」に肩を入れすぎて入るだろうか。

 外食チェーンの無機質さの描写と自分自身を対比させる「ひとりぼっち東京」において、「邦ロックの記号」は始まって一瞬で耳に入る「ハッ」という声を出す前の息遣いに認めることが出来る。椎名林檎が「ここでキスして」において切実さの表象として編み出した表現であるが、これもBLUE ENCOUNT「もっと光を」、FLOW「Sign」などが代表するように「エモさ」を醸し出す記号として多く用いられた。サビ終わりで「東京」と叫ぶのもそれっぽい。


 3曲目「Distortion!!」から様相が変わる。作詞作曲はKANA-BOONの谷口鮪だ。これまで「2020年代にあの頃の邦ロックを再構成する」という趣だったはずが、10年代の邦ロックシーンの方向性を決定付けてしまった張本人が参加するという二重の換骨奪胎が引き起こされる。曲自体も名盤「TIME」における屈指の名曲「スノーグローブ」において彼自身が発明したものが前面に押し出される。メロディーの半音移動が醸す感傷と四つ打ちの高揚感をミックスさせたイントロから「ディストーション」という言葉の「Ou」という語尾の押韻が気持ち良いサビまでスムースに、かつ緩急をつけて突入するKANA-BOONらしい1曲である。


そして雪崩れ込むように高速四つ打ちアンセム「ギターと孤独と青い惑星」、間奏において全員が同時にキメを合わせる瞬間が「軽音楽部のオリジナルソング」らしさを強く印象付ける「ラブソングが歌えない」と続く。

「あの頃」の音楽の記号をなぞるような前半から、もっと広く00年代から10年代の音楽を包括するように後半は展開する。その端緒がM7「あのバンド」である。
 これまで10年代のフェスカルチャー的なリファレンスが多かった楽曲から一点し、楽器陣がカオスティックな濁流のように混じり合うイントロで意表を突かれる。言ってしまえば9mm parabellum bullet「Supernova」等に近く、すなわちポストハードコアやメタル、ポストロックを通過したいわゆる「残響系」への目配りといえる。正確には「Supernova」をリリースした際には9mmは既に残響レコードに所属していなかったし、9mm自体もロッキンオンジャンパンフェスを中心に支持を獲得したバンドだ。「あのバンド」に関してもイントロを除けば「Wanderland」のようなフェスで流れたら「例の」ボックスステップを踏みたくなるような性急な四つ打ちビートではある。 

 
 ただ、tricotが提供したM8「カラカラ」やpeople in the boxに近いメロディアスさや空間系のエフェクトの拡がりが美しいM13「フラッシュバッカー」などの楽曲が象徴するように、10年代のバンドシーンの多様さもカバーしようとする気概が映る。

 
 後半のハイライトは本編でも印象的だった「星座になれたら」だろう。検索したら「星座になれたら バンアパ」とサジェストされることから話題になってることが分かるのだけど、もうthe band apartである。硬質なピック弾きによる歌うようなベースラインと16分のカッティングが交わるブリッジから開放感のあるコーラスへ移行するあの感じはthe band apartの「夜の向こうへ」などを挙げたくなる。歌詞に関しては「遥か彼方」や「カルマ」といった言葉が星のように散らばっていて、それらを結ぶと「あの頃」が星座のように浮かび上がるという憎さ。これが「あざとい」に繋がるか、感涙を引き起こすのかは人それぞれであろうが、私は後者だ。


BUMPを代表とする下北沢を中心としたインディーバンドの勃興がロッキンオンの仕立てたフェスカルチャーと上手く接続し、軽音楽部やレジャー産業を飲み込み一大カルチャーとして成り立った十数年間。その期間に散らばった記号を改めて検討し、結び、繋げる営みが「結束バンド」だったと言える。私が初めて好きになった音楽はこの期間に生まれたもので、そして軽音楽部にも所属していて、そういった私自身のナラティブと重なって、「結束バンド」というアルバムは私に異常な角度で突き刺さった。

その角度をさらに急なものとしたのが本作のラストトラック「転がる岩、君に朝が降る」だった。私が1番好きなアルバムの1番好きな曲だったこと、「何者でもない」ことを自覚したゴッチ・ぼっち・モッシュピッチに突っ込んでいった僕らの歌であること、2番のAメロのアレンジが完璧だったこと、そんな諸々が重なって気づいたら拳を突き上げていた。


ロックは誰の手に(まとめに代わって)

少し話はずれるが、紅白歌合戦の出演者が発表されて、その企画内で''THE LAST ROCKSTARS''と''時代遅れのROCK'N'ROLL BAND''のふたバンドが出演するという。このように、現在、「ロック」は「LAST」や「時代遅れ」という言葉を冠して一種の古臭さを纏った物として表出している。これは事実でありながら、一つの側面を切り取ったに過ぎない。「ロック」という概念についてアジカン後藤はこう振り返っている。

しかし、いわゆるロックをある種の不良性から奪還したことはひとつの成果なのではないかと『ぼっち・ざ・ろっく!』を観ながら思った。俺たちはロックが持つある種のドレスコードに反発していた。それは華美な衣装や化粧だったり、革ジャンのイメージだったり、あるいはハーフパンツとクラウドサーフだったりした。デビュー当時は「あんなのはロックじゃない」と散々言われた。傷ついたこともあったが、その言葉こそが燃料だった時代もあった。陰キャという自覚はないけれど(だってそれはドレスコードが仕向けたバイアスとキャラだろう)、拗れていたことは確かだ。今はすっきりと、ありのまま音楽に向かっている。楽屋でゲラゲラ仲間たちとやり合ったテンションのままステージに上がり、俺たちにしかできない音楽を鳴らす。ロックかどうかは本当にどうでもいい。今、自分たちにできることをやるだけだ。良いバンドになったと思う。

ドサクサ日記 12/5-11 2022

「不良性」というのはひとつの「押し付けがましさ」みたいなものだろう。「LAST」だったり「時代遅れ」だったりといった固定のイメージを付けようとする態度自体から逃れ、ただ「何者でもない」自分を自覚しながらただ音楽を鳴らそうとする態度。それはバンド形式でも、ひとりデスクトップに対峙しているだけでも持ち得ることが出来る。何かにタグ付けされ分類されカテゴライズされラベリングされてしまう今、「何者でもなさ」を自覚しながらただ新鮮に音を鳴らし続ければそれが「ロック」なのだとアジカン後藤は今振り返っている。

だから、「ぼっち・ざ・ろっく」において、バンドを組む前から自意識の中で活路を見出そうとしていた後藤ひとりはもう「ロック」を体現していた。そして「ぼっち・ざ・ろっく」と冠された第8話において伊地知虹夏が「ギターヒーロー」時代のぼっちちゃん時代も含め肯定したことは「ありのままの自分を捨てず音を慣らし続けるといる」というアジカン後藤の考えている観念と共通する点がある。たぶん、今、ロックはその概念の定義を失うことでギターと自意識を抱えた全ての人のものになった。それをこの時代に発信したことに「ぼっち・ざ・ろっく!」の意味はあった。

本編ラストシーン、朝焼けに包まれ歩く主人公のぼっち

もう目が覚めた
ドアを蹴飛ばして
朝焼けの空を駆け抜けた
今 君の吐息が弾む音
夜明けの街路が露を纏うこと

「エンパシー」



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