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「現場泣かせはエンジニアの恥」キヤノンからMITへ留学したエンジニアが目指す、強く柔軟なチーム

リチカのエンジニア・内田均さん。今はCTOとして、リチカの技術面を支えているひとりだ。キヤノンに15年勤めたのち、リチカに入社した経緯、そしてこれから入社するエンジニアに求めるものについて聞いた。

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エンジニアの父の影響で、幼少の頃から科学に親しんできた内田さん。大学に入ったときはロボット工学を専攻していたが、4年生の時にプログラミングの道に転向する。「ハードウェアは、機器のメンテナンスが大部分を占めるので、あまり研究できないなと感じてしまって。ロボットの心臓部を動かすのにプログラミングが必要で、自力で勉強しました」。そこからプログラミングの世界にどっぷりはまり、大学院でもマシンラーニングを研究。そこから、「入社してもある程度領域が決まっている」という理由でキヤノンを選んだ。

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「2000年頃は、WEBサービスっていうキーワードがピークで盛り上がってまして、会社をまたいでサービスが連携する技術の黎明期でした。具体的にはそこで取り交わされるデータフォーマットで、XMLっていうのが当時出てきていて、入社1年目でその解析プログラムを実装したりしてました。途中からがっつりWEB技術系にシフトして、WEBアプリというよりもその中のエンジンを触る仕事をしてました」

結果的に内田さんはキヤノンには15年ほど勤めたが、途中で2年間ほど企業派遣としてアメリカ・マサチューセッツ工科大学(MIT)の人工知能研究所に派遣された。インターネットを発明したイギリス人のティム・バーナーズ=リー博士の研究室に所属し、研究をすることになった。派遣期間は実りあるものとなったが、仕事面以外でも得るものの大きい2年間だった。

「まず、現地で一人で生活を立ち上げて、家族を呼んで……家を借りたり、銀行の口座を作ったり、契約をしたりする上で、英語が通じない場面もいっぱいあって。滞在の途中でビザをアップデートするときも、手続きの途中で英語が読み取れなかったりして、とにかくたくさん恥をかきました。そういう経験をしてたら、あんまり恥をかいても恥ずかしくなくなったっていうのはありますね。400人が集まる学会で、僕だけ日本人で発表する、みたいなこともあったんで、その経験を考えるとたいていの失敗なんて怖くない、と思えるようになりましたね」


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大企業でエンジニアとして勤めている人は、あまり転職しないイメージがありますが、と聞いてみると、「そうでもないですよ」という。「入社して10年ぐらいは、会社として研究開発への投資もしっかりあって、いろんなネタで研究できたりしました。でもだんだん研究系への投資が絞られてきて、開発や事業系に重きが置かれるようになってきて。そのタイミングで自分の周りでも辞める人が出てきました」。しかし内田さんは、留学時に会社から費用を出してもらったこともあり、フィードバックしたいという意味もあり会社に残った。

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その後残業が禁止になるなど、プライベートに余裕が出てきたタイミングでたまたまリチカのVPoEをつとめる橋本さんに出会い、副業として立ち上げ当時のリチカを手伝うことになった。「本業とは全然違う分野の仕事をして、何か学べることはないかなと思って。橋本さん、リチカとの出会いは本当に偶然でしたね」

内田さんは動画エンジンを触るのは初めてだったが、「最初はけっこう簡単にいろんなものが作れるんだなって思って、面白かったですね」と振り返る。だが次第にリチカユーザーが増えていくにつれて、「機能を追加してほしい」という要望を受ける。「写真やスライドをゆっくり止めたり、テキストもゆっくりスライドインしてスライドアウト、そのスピードもちょっと変化球があるようなやつを追加して欲しいとか、その辺の動画エンジンの改良のフェーズはしんどかったですね」


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副業としてだが内田さんはリチカに本格的に関わった最初のエンジニアとなり、社長の松尾さんも「リチカの父」と呼ぶ。自分がつくったものだと思うと、愛着がわいてくるものだが、いかにチームとしてのパフォーマンスを最大化するように心がけているのだろうか。

「最初に2名エンジニアが入ってきた時に、『自分のプロジェクト』と思うのはやめようと思いました。そしてメンバーに、『上も下もなく自分のコードは遠慮なく書き換えてくれ、また自分も遠慮なくあなたのコードを書き換える。だけど、いいものをいつも選びましょう』って言いました。既存の成功とか、既存の処理が一番いいとか、そういうものは全部抜きにして、今一番いいと思うものを選ぶようにしようと。一人のプロジェクトじゃないから、みんなにとってやりやすいコードじゃないとだめ、ということを重要視するようにシフトしました」。たまたま早くに松尾さん、橋本さんに知り合ったから内田さんが先に開発することになったが、タイミングが違ったら別の人が取り組んでいる可能性だってある。だから「自分のもの」とは思わず、サービスを運営している人のために作る、その気持ちをずっと持ち続けるようにしている。

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副業から参加して2年、ついに内田さんはキヤノンを退職してリチカへの入社を決めた。大企業を退職してスタートアップに転職する決め手はなんだったのだろうか。「リチカの人たちって、とにかくみんなすごい良い人たちだな……っていうのはずっと感じてて。困ってるっていうメッセージをいただくと、すぐこの人達のためになんとかしなきゃ、って思わせてくれるような方ばかりだなって思ってました。それから松尾さんも橋本さんも、ちゃんと論理的に話せるというのも大きかったですね」

内田さんの座右の銘は「現場泣かせはエンジニアの恥だ」。これはキヤノンでの新人時代、工場研修に行った工場長が言っていた言葉だという。「『これから君たちは研究で新しいものを生み出す側に回るけれども、君たちが失敗するとここで働いてる工場の人まで響いてきて、みんな大変な思いするんだぞ』と。『君たちが失敗すると、後ろの工程全員泣くぞ』って。研究部門ってユーザーの方からは最も遠いところで、日々のフィードバックなんかもないんです。うっかりすると勝手にこれがいいんだろうって思い込んで、突っ走るだけになってしまうんですよ」。だから後の工程の人のことをいつも考えながら動いていかなければいけない、という。


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内田さんはいま、開発グループを主導するポジションを務めている。今後、リチカに入るエンジニアに求めるものは大きくわけて2つあるという。

「1つは、どんなにすごいバックグラウンドを持っていたとしても謙虚さを忘れない方ですね。MITにいていろんなすごい人達を見てきたので、あの人達に比べたら自分なんて全然大したことない、って今でも思うんです。謙虚さを失ってしまうと、エンジニア以外のメンバーともギクシャクしてしまうんですよ。いつも謙虚にいろんな意見を聞いて、柔軟に合わせてくれる人が望ましいです」。それは、会社がさらに伸びていく上で、チームとして動いていくために必須の要素でもある。「何か面白い最先端の技術があるからってそれに飛びつくんじゃなくて、会社が目指す方向にねいつも足並み揃えてくれる柔軟性、ですね」

そしてもう1つは、「自分で勉強し続ける人」だという。その中でも一例として、コンピューターサイエンスを学んでいる人をあげる。「最新の言語や技術をやっていた場合、世のトレンドが変わったとき、その技術が必要なくなった時に急にできることがなくなっちゃうんですよ。やっぱり、強いのは下のレイヤーを知っている人上のレイヤー(技術)がどんなに変わってもぶれない強い柱を持ってる人に来てほしいです。地味で目立たないけど、難しい技術をやってきた人。大学で学んでなくても、自力で勉強できている人なら、何をのっけてもだいたいできると思います」

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いまや400社というクライアントを抱えるリチカだが、開発チームは少数精鋭だ。その理由として「小さな失敗をしても復帰が早い」ことを内田さんは理由にあげる。例えば「独立性をもったあるモジュールはAさんにやってもらって、0から100まで走り続けてもらう」というように、1つのことに関係する人を少なくすることで、マネジメントコストを減らしてスピードをあげていきたいという考えもあるという。

少数精鋭の開発チームは、国籍も多様だ。「謙虚さと自走できる強い力があれば、性別も年齢も国籍も関係ない」と内田さんは言う。「海外のエンジニアと連携することで、東京エリアのエンジニア獲得競争から脱却できます。我々としては日本に限らず世界の優秀な人をいつでもエンジニアチームに招き入れて開発したいと思ってますし、これを我々の強みにしたいですね」

世界に広がるリチカの開発チーム。今後もサービスの屋台骨として、多くのクライアント、そしてユーザーの体験を影から支え続ける。

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(編集協力/株式会社WORDS)

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