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陽だまりのチョコ

  築六十年、当時医者だった祖父の家に、俺は一人で住んでいる。
古い民家で暮らしにくさは多々あったが、家賃もいらないし、会社からも近い好条件なので不満はない。
いや、一つだけある。
不満という訳では無いが……。
この家、出るのだ。
そう、世間一般で言う幽霊と言うやつが。
初めて会ったのはまだ祖父が生きていた頃。
最初は近所の子供か親戚の子供だと思っていた。
おカッパで着物を着た女の子。
少々引っ込み思案だったそいつは何をやってもドン臭くて、いつの間にか俺はその子の面倒をよく見るようになっていた。
しかし年月が経つにつれて、段々とおかしな事に気が付き祖父に相談したところ、あれがこの世のものでは無い事を知らされた。
ショックではあった。
しかしこれと言って怖くもなかった。
話もできるし一緒に遊ぶ事もできる。
ふらりと現れふらりと消えてしまう。
ただそれだけだ。
特に害もないのだから気にする事はなかった。
ただ視えていたのは俺と祖父、それ以外の人間がいる時は注意が必要なくらいだ。
そしてその子は今も尚この家に居る。

しかも今俺の目の前に。

「じゃあ行ってくる」

玄関で靴に履き替えながら言うと、どこからともなく現れたチョコは不機嫌な顔で頷いた。
因みにチョコとは俺がつけた名前だ。
こいつは自分の記憶を持っていないらしく、自分の名前すら覚えていなかった為、昔からチョコが大好きだったのでそう名付けることにした。

「あの女に逢いに行くのか……?」

チョコが口を尖らせ言った。

「ああ、あの女じゃなくて三沢さんな、会社の同僚で俺の彼女、いい加減覚えろ、この前連れてきたばっかだろ。今日デートなんだ」

「あの女はやめた方がいい……」

「お前な……デート前に不吉なこと言うなよ」

「うちも行きたい……」

そう言うとチョコは俺の袖を掴んだ。
いつもの癖だ。
俺が出掛けようとするとこうやって袖を掴んで来る。

「お前家から出られないだろ、我慢しろ」

そう、チョコはなぜか家から出られない。
昔、外で遊ぼうと彼女を無理やり外に連れ出した時があった。
当時の俺はまだガキで何も考えずにチョコを連れて外へと飛び出した。
その際彼女はとても苦しそうにして消え掛けてしまったのだ。
その後直ぐに家に戻ったが、具合が悪かったのか暫くチョコは姿を現さなかった。
あれ以来、俺はチョコを家から連れ出さない事に決めている。

「て言うかお前性格変わったな……昔はもっとこうしおらしがっぞ?」

「それはだらしない悠介のせいや、うちがやかましく言わんとシャキッとせいへんやか」

「わ、分かった分かった、ああもうこんな時間だ、じゃな、行ってくる」

俺はチョコのおカッパをくしゃくしゃと撫で家を後にした。

待ち合わせの場所で三沢さんと合流し、予約していたレストランで食事を楽しんだりと、俺は彼女とのデートを楽しんだ。
彼女とは結婚も考えている。
気立ても良く会社でも人気がある子で、正直俺なんかで釣り合いが取れるのかと心配だったが、三沢さんはこんな俺でも良いと言ってくれた。

やがてそんな楽しい一時も終わりを告げた頃だった。

デートも終わり、このままプロポーズしてしまおうかと考えた矢先の事だった。
三沢さんが申し訳なさそうに言ってきた一言で、俺の願いは一瞬で吹き飛び、一気に地獄へと叩き落とされた。

「ごめんね……悠介君、私他に好きな人ができたの」

視界が真っ暗になりそうだった。
完全に意気消沈してしまった俺は、悲しく俯いたままの彼女を送り届け、ふらつく足取りで家に戻った。
扉を開け玄関に入ると、心配そうに俺を見つめるチョコと目が合った。

「お帰り……」

「ただいま……」

俺は肩を落とし力なく返事を返した。

「あの女に振られたんやろ……」

「ああ……え?お前なんで知ってるんだ!」

「この前連れてきたやんか……うち、人の心が読めるんや……」

「読め、えっ!?よ、読めるってマジでか!!初耳だぞ!」

「相手の心が勝手に流れ込んで来るん……たまにやけど、でも言ったら悠介気持ち悪く思うんやないかって……」

「まじかよ……じゃ、じゃあこの前三沢さん連れてきた時から知ってたのか?」

「うん……あいつ他に男がおんねん……悠介とどっち取るか考えてたんや……」

「お、男!?ど、どんな奴だ?」

「佐々木言う奴や……顔は知らへん」

「佐々木!?佐々木って……佐々木先輩かよ……」

俺は頭を抱え項垂れるように玄関に座り込んだ。
佐々木さんは俺より五つ上の先輩だ。
営業部でも人気のある人で仕事もできる。
しかも俺と三沢さんが付き合っている事も知っていた筈だ。
それを承知で……。

「まじかよ……」

最悪だ。

「あいつ悠介の事頼りない言うとった、ほんま腹立つ女や」

チョコがほっぺを膨らませ俺の隣にちょこんと座った。

「頼りないか……まあ実際そうだしな……」

「悠介は頼りになる男や、うちがよう知っとる!」

「ははっ……ありがとう……なあチョコ?」

「なんや?」

「お前幽霊だし呪い殺したりできねえの?」

「呪いか……やってみる!う~ん……!」

チョコはそう言うと目を瞑り唸り出した。

「おお!できるのか!じゃ、じゃあ佐々木先輩を!」

「無理や、そもそも呪うってどうやるん?」

「ダメ幽霊め……」

「なんやその言い草!うち頑張ったんやで!?」

「はいはい」

「ああバカにしたな!今うちの事馬鹿にしたやろ?だいたい悠介最近うちの事放ったらかしすぎや!全然相手してくれんやんか!」

「相手してやるよ……」

「えっ?ほんま?」

「おう、仕事休む。もう何もやる気でねえ……」

「やったあ!ねぇねぇ何して遊ぶ?」

「とりあえず何か映画でも観るか」

「映画か!?うちあれがいい、あのドカーンってなってバンバンって撃つやつ!」

「何だそりゃ」

その後、チョコに袖を掴まれた俺は居間へと引っ張られ、アクション映画を四~五本程強制的に観せられた。
内容はほとんど頭に入って来なかったが、こんな時誰かが側に居てくれるっていうのは良いもんだ。
一人なら今頃号泣してヤケ酒でもしていただろう。
ふと横目でチョコを見ると、六本目のスパイ映画に目を輝かせながら見入っていた。
俺はそんなチョコを置いて居間を出た。
時刻は午前七時。

完徹じゃねえか……。
スマホを手に取り上司に電話した。
体調が思わしくないので有給を使わせてくださいと……。

了承はあっさりと取れた。
元々そんなにあてにされていないのだろうか。
それはそれで何か虚しい気もするが……。
居間に戻るとチョコが嬉しそうにソファーで俺を見上げてきた。

「な、何だよ?」

「次何する?なあなあ悠介何する?」

「あのなあ……」

こうなりゃヤケだ、とことん遊んでやる。

「ようし!次はゲームだ!」

「ゲームな!」

チョコがゲーム機を掲げソファーの上で飛び跳ねた。

「犬かお前は……ほら始めるから座れ」

「わん!」

「ぷっははははは!」

「ど、どうした悠介?」

「いや……ふふ、何でもない、おかしかっただけだよ、ありがとな、チョコ……」

「ん?わあっなんや!」

「何でもないって言ってるだろ」

言いながら俺はチョコの頭をくしゃくしゃに撫でてやった。

チョコのおかげで元気を取り戻した俺は、翌日は会社に出勤した。
三沢さんとは顔を合わせづらかったが、いつまでも引きずる訳にはいかない。
仕事中はなるべく気を使わせないように振舞っていたのだが、そんな俺に事件が起きた。
昼休み、食堂で食事を取っていると、総務の女子社員達が佐々木先輩の噂話をしていたのだ。

「佐々木先輩三沢さんと付き合ってるっぽいよ」

「えっそうなの?」

「先月ホテル街で二人して歩いてるとこ見たって子がいるのよ」

「佐々木さんって受付の子と付き合ってなかったっけ?」

「え?そうなの?二股!?」

「しっ!声大きいって……」

その話を聞いていた俺は食事を中断し席を立つと……。

「おっ、久しぶりだな悠介、営業部に何か用、」

──バキッ!

やってしまった。
気が付くと、営業部を訪れた俺は怒りに身を任せ佐々木さんを殴り飛ばしていた。
騒然とする社内、呆然とする佐々木先輩を横目に、俺は営業部を出た。
騒ぎを駆け付けた社員達が俺を呼び止めようとするが、俺はそれを無視した。
その中には三沢さんの姿もあった。

「最低……」

ゴミでも見るかのような彼女の視線に耐え切れず、俺は無言のまま会社を後にした。

「捕まるかもな……」

「はあ!?」

家に帰った俺は、放心したままボソリと呟いた。
チョコが唖然とした顔で俺を覗き込む。

「佐々木先輩ぶん殴っちまった……会社、クビかもな」

「だ、大丈夫か……?」

「はは……どうだろうな」

「げ、ゲームでもするか悠介!」

「そう……だな……」

俺はチョコに言われるがままゲームを始めた。
もう何も考えたくない。
仕事も、三沢さんの事も考えたくない、全てが煩わしく思えた。
生きることさえも……。

「死のうかな……」

「え?」

チョコの手からコントローラーが滑り落ちた。

「死んだら俺もチョコみたいになれるかな……そしたらこの先ずっと一緒に……え?ちょ、チョコ?」

チョコの様子がおかしい。
心臓を抑えて何処か苦しそうにしている。

「どうしたチョコ!」

「皆死んだんや……」

「な、何だよ急に、どうしたんだよ?」

「皆生きたかったんや……なのに……」

「チョコ……?おいチョコ!?」

明らかに様子がおかしい。
慌ててチョコの傍によると、俺の目の前でチョコが忽然と姿を消した。
終始辛そうな顔で、苦しそうに何かを訴えながら。

それから暫くチョコは姿を現さなくなった。
次の日も、その次の日も、何日経っても一向に顔を見せてくれなかった。
こんな事は今までで初めてだ。
その間会社から連絡があり、今回の件による俺の処分について聞かされた。
会社の追求で佐々木先輩の社内での著しい風紀を乱す行為が確認され、警察への訴えは取り下げられたらしい。
だが、俺のやった事は決して許される事ではない為、自主的な退職をするよう言い渡された。

当然と言えば当然だ。
むしろ思ったより軽いと感じた程、しかし、それよりも俺はチョコの事が気になっていた。
あの時のチョコの様子、明らかに異様だった。
あんなの、今まで見た事がない。

「泣いてたな、あいつ……」

当たり前のようにずっとチョコは俺の傍に居た。
そしてそれは当然のようにこれからも続いていくんだと、そう思っていた。
その当たり前に考えていた自信が、今正に脆くも崩れそうになっている。

俺の頬に、冷たいものが伝い流れ落ちる。
気が付くと目端に涙が浮かんでいた。

目元を拭い声を押し殺すように泣いた。

「チョコ……」

「悠介……」

不意に声が聴こえた。
チョコの声だ。
俺は慌てて声に振り返った。

「チョコ!」

チョコだ。
気恥しそうな顔で微笑むチョコが、俺の目の前にちょこんと座っている。
けれどその姿に違和感があった。
今まではハッキリと見えていたはずのチョコの姿が、微かに透き通っている様に見える。

「ど、どうしたんだその姿……」

「うん……うち、消えてまうかもしれん……」

「消える!?何だよそれ!どういう事だよ!?」

「うち、記憶が少しだけ戻ったんや……」

「記憶が?全部思い出したのか?」

「ううん……ちょこっとだけ。うちには沢山のお友達がおったんや、でも皆死んでもうた……皆生きたい言うとったのに……皆死んでもうたんや……」

「だ、だから消えちまうって言うのかよ!」

「そうやない……声が聞こえんねん……」

「声?」

「うん、こっちに来い、こっちに来いって……そしたらこんな身体に……多分そんなに長くないと思うん……」

「嘘だろ何だよそれ!」

「悠介、そんなに怒らんといて……これでもうち十分長生きしてきたやんか……」

「長生きって何だよ、お前幽霊だろ!そうじゃなくて……お、お前はそれでいいのかよ!」

「寂しい……よ、寂しいけど、仕方ないやんか……」

「どうしようもないのか……?」

「うん……多分……」

「そうか……」

なぜだろう……三沢さんの時も悲しかったけど、それよりももっと悲しく感じるのは。
胸が締め付けられるとはこういう気持ちなのか……。
考えれば考えるほど苦しい。
俺に何かしてやれる事はないのか?
チョコはいつも俺の傍にいて支えてくれた。
そんなチョコに、俺にできる事は何かないのか?

「なあチョコ……?」

「なあに?」

「何かやり残した事ないのか?」

「何かって?」

「何でもいいんだ、何かほら、幽霊って悔いが残ったりとかするじゃないか、そんなのチョコにはないのか?」

「う~ん、記憶……とか?」

「記憶?」

「うん……うち、気が付いたらこの家におったんや……何でここにおるんやろ……何でうちはこうなってしまったんやろ、それにこの前の記憶……死んでしまった友達の事思うたら、何か悲しゅうて……」

「記憶か……分かった!俺が思い出させてやる!」

「ほんま?」

「ああ、任せろ!だから頼む、それまでは消えないでくれ!頼む!なっ!?」

俺はそう言って深々と頭を下げた。

「悠介!そんなんやめてや、うちも頑張るから、なっ?」

「うん、頼む……」

こうして、俺はチョコに関することを調べる事にした。
今わかる範囲では、チョコは祖父が生きていた頃にはもうこの家に居たという事だけだ。
しかも祖父が初めてチョコと会ったのは、俺と同じまだ子供だった頃だと聞いている。
だとすると俺の曽祖父がまだ生きていた頃という事になる。
曽祖父は大学の研究所で働いていた時に、戦争で医療班として軍隊に招集され、戻った後は研究も辞めてしまい家に篭っていたと、祖父から聞いたことがある。
祖父の遺品に何か手がかりがあるかもしれない。
そう思い俺は家にある遺品を片っ端から調べる事にした。

その結果、ある事が分かった。
祖父が残した遺品の日記に記されていた事だが、どうも曽祖父もチョコの存在を認知していたようだ。
祖父も俺と同じ様に、チョコの存在を曽祖父から聞かされていたのだ。
そしてもう一つ、祖父の事をよく知る人物が、今も健在である事、しかもその人物の曽祖父もまた、うちの曽祖父と同じ部隊に居たという事が分かった。
俺は祖父が残してくれた電話帳の番号や住所のメモを取ると早速連絡をとった。
すると、相手先はそれを快く快諾してくれた為、俺は直ぐに会いに行くことにした。

「うちも行きたい……」

玄関でチョコに捕まった。
しかし、いつもなら俺の袖を掴むはずのチョコの手が、虚しく空を切った。
掴めないのだ。
チョコの頭を撫でようとしたが俺は思い留まった。
もう頭も撫でてやれない。
思わず泣きそうになったがそれをぐっと堪えた。
代わりにめいいっぱいの笑顔ですぐ帰るからなと伝え、俺は家を後にした。

「ごめんください……」

インターホンを押し扉越しに声を掛けると、八十代位の優しそうな男性が現れた。

「お待ちしてましたよ、さあどうぞ、お上がりください」

「きょ、今日は唐突に押し掛けてしまい申し訳ありません、じゃ、じゃあ失礼します」

俺は頭を下げ、案内されるがまま男性の家にお邪魔した。

「貴方が彰吾さんのお孫さんですか……立派になられて、彰吾さんもさぞ嬉しがっている事でしょうね」

「いえとんでもないです……」

俺は気恥ずかしくなり、いれてもらったお茶に口をつけた。
因みに彰吾とは俺の祖父の名前だ。

「うちの孫なんてまともな職にもつかず未だに遊び歩いてますよ、困ったもんです」

「そんな、僕も似たようなもんです……そ、それで電話でお話した件なのですが……」

「おおそうでした、歳をとると直ぐ話が逸れてしまいますな、ははは、いや申し訳ない、それで、具体的には彰吾さんのお父さんの、何を聞きたいんですか?」

「曽祖父が軍隊に居た時の話です、何か知っている事はありませんか?」

「なるほど……確かに私も亡き父から承っております、貴方の曽祖父と私の父は幼なじみでもありましたから……」

「本当ですか?ぜ、ぜひお話を」

「ですが……」

言いかけた俺に、男性はなぜか困った表情を浮かべた。

「何か問題が……?」

「いえ……ただ聞いてもあまり気持ちのいい話ではありませんよ?」

「え?」

「父が亡くなる前に全て打ち明けてくれました、戦時中、貴方の曽祖父と部隊で何があったか、そしてそれをどんなに悔やんでいたか……」

「お願いします……俺には知らなきゃいけない事情があるんです、例えそれが望まない結果だったとしても」

「そうですか……分かりました。父の残した資料もあります、それを見てもらいながらお話させて貰いましょう」

「お、お願いします……」

それから、俺は男性から事のあらましからその結末までを全て聞かされた。
男性が初めに言ったように、とても気持ちの良い話ではなかった。
むしろ聞いている途中何度か吐き気を催す程だった。
ショックでもあったが、ただただどこまでも悲しかった。
これをチョコに話すべきなのか……。

俺は男性に頭を下げ家に戻ることにした。
帰りはとても歩いて帰れそうになかったので、タクシーで家の近くのコンビニまで戻った。
店でチョコを買った。
食べられるかは分からないがそれでも渡したかった。
店を出てフラフラした足取りで家に向かう。
まだショックが抜けきれない。

男性から聞いた話は、俺が想像していた事よりも悲惨なものだった。
俺の曽祖父が戦時中、所属していた部隊は医療班なんてものじゃなかった。
それは表向きの名前で、事実は非合法の人体実験の研究部隊。
当時、戦争末期だった軍隊はあらゆる研究を行っていたらしい。
それこそ中には馬鹿げた兵器開発などあらゆる事に着手したそうだ。
言い返せばそれだけ軍も追い詰められていたのだろう。
その中で、超能力に関する実験を行っていたのが、俺の曽祖父、そして先程の男性の父親が所属していた部隊だった。
その頃日本の各地で、特殊な力を持った子供達が多数存在していたらしい。
軍はそこに目を付け、日本の戦争勝利のため、子供達を提供して欲しいと、各地で交渉を行っていたのだ。
ある者は日本のためならと喜んで子供を差し出し、ある者は金銭で我が子を提供する者もいたのだとか。
そして男性が見せてくれたその資料の中にあった子供達の白黒写真の中に、見覚えのある顔を、俺は見つけてしまった。

それはあの……チョコだった。

チョコの本名は豊田  愛美。
当時十二歳。両親に早く先立たれ、親戚中をたらい回しにされていたらしく、その過程でチョコの特殊能力、人の心が読める事に気が付いた親戚は、それを気持ち悪く思い、軍からの要請に喜んで情報を提供し、チョコを金銭で売り渡したらしい。
そうやって集められた子供達に待っていたのは、実験と名を借りた拷問の様な日々が待っていた。
男性の父も俺の曽祖父も、上層部の命令に逆らえなかったらしい。
家族のため、お国のために。
今でならそんな事に手を貸しはしないだろう。
だが時代が違った。戦争という病に、誰もが犯されていたのだ。
やがてそれは麻痺していき、何が正しいのかさえ分からなくなったのだろうと、男性は語っていた。
そんな男性が、最後に父親にこんな事を聞かされたと、話してくれた。

「君の曽祖父が、とある少女の亡骸を抱いて泣いていたらしい……すまん……本当にすまんと何度も泣き叫んでいたそうだ……うちにおいで、うちで一緒に暮らそうと、お前を不幸にしたこの世界ではなく、私の家でずっと……とね」

そう、その少女こそが、おそらくチョコだったのだろう。
そして曽祖父の言う通り、チョコは我が家に住み着いた。
記憶がない事や家から出られないのは、そんなチョコを思う曽祖父の、ある種呪縛のようなものだったかもしれない。

さて、これをどうチョコに伝えるべきか……。
俺は深いため息をつき項垂れた。
その時だ。
足元に電柱があるのに気が付いた俺は、それを避け道路に飛び出した。

その瞬間。

俺の身体に凄まじい衝撃と激痛が襲った。
何かを確認する暇さえなく、俺の身体は吹き飛ばされ地面に転がった。
痛みに薄れゆく意識の中で、遠ざかっていくエンジン音だけが、耳元に虚しく響いた。

「悠介……」

不意に声が聴こえた。

ハッとし目を開き起き上がろうとするが、身体中が悲鳴をあげ上手く起き上がれない。
目に血のようなものが映り、それを何とか袖で拭うと、視界の先に見慣れた顔があった。

チョコだ。
泣き腫らしたチョコが、俺の傍に座り込み悲痛な顔で俺を覗き込んでいた。

「よ、よう……何そんなに泣いてるんだよ……」

「悠介生きとった……生きとったあ!」

「泣くなって……ま、まだ起き上がれそうにないけど、ちゃんと生きてるぞ……そ、そうだ、チョコ買ってきたんだ、お前が好きなやつ、い、一杯買ってきてやったから……な」

「そんなもんいらんよ!悠介が無事ならそれでええんや!悠介が生きとったらそれで……!」

「何だよ……せっかく買ってきたのに……えっ?お、お前!?」

俺はそこでようやく状況を理解しチョコを見上げた。

「外に!?ば、ばかやろう!早く家に戻れ!!」

だが、そんな投げかけた声に対し、チョコはゆっくり首を横に振って見せた。

「た、ただでさえ消えかけてんだぞ!そんな事したらお前!?」

「ええんよ……悠介、もうええんや、十分なんや……」

「な、何が十分何だよ!俺ちゃんと調べてきたんだ!約束だろ!それまで消えないって!!」

「大丈夫……悠介の心、うちには分かるよ……もう大丈夫や、全部、全部思い出せたから……」

「そんな……!」

「最後に……最後に悠介の顔見れて良かった……もう心残りなんか、」

「い、いいのかよそれで!本当にそれでいいのか!?お前の記憶には本当にそんな辛い記憶しかないのかよ!!」

「悠……介?」

「何かあるだろ他に!思い出せ!辛い事だけじゃなくて、嬉しかった記憶も!!」

「嬉しかった……?」

「そ、そうだ、楽しかった記憶もだ!」

「楽しかった……あっ……」

「あるのか?あるんだな!?思い出せチョコ!」

「皆で……皆で花火した……」

「は、花火か、良いな、皆でやったのか、楽しかったか?」

「うん……おじさん達が一杯持ってきてくれた。スイカ食べたり、アイスも食べた……」

「はは、夏ぽくていいな、ほ、他には?」

「おじさん達とお友達が誕生日祝ってくれた……生まれて初めて祝って貰えた……ふうって、ふうって吹きかけたらロウソク消えたんや……」

「皆でか?良かったな、ケーキも食べたか?」

「食べた……おじさん達が作ってくれたやつ……ちょっと変な味もしたけど、美味しかった……」

「ははは、じいさん連中料理下手だったんだな!」

「うん……でも優しかった……優しかったけど、友達が少しづつ居なくなった……」

「おいおいやめろよ、ほ、他には何かないのか?」

「悠介……」

「えっ?」

「悠介がおった。うちと、うちと沢山遊んでくれた……チョコもくれた……美味しかった……ほっぺが落っこちそうになった……」

「ああ、沢山遊んだな、だ、だからこれからも」

「悠介」

そう呼んで、チョコは真っ直ぐな瞳で俺を見つめ口を開いた。

「大好きや……おおきに……」

花が咲き誇るかのような満面な笑み、でもそれは散りゆく花にも似た笑顔。
チョコの身体が徐々に薄らいでゆく。

「おい嘘だろ!くそっ!!」

身体を無理にでも起こそうとするが、それを激痛が邪魔をする。歯を食いしばり腕を伸ばそうたした瞬間。

チョコの身体は、一瞬陽炎の様に揺らめいたかと思うと、スっと掻き消えてしまった。

俺は地面に力無く両手を放り出した。

「はは……」

そして俺は深く息を吸い込み……泣き叫んだ。

その後、声に駆け付けた近所の人によって、俺は救助を受けた。
肋骨を骨折していたが、幸いにも命に別状はなかった。
暫く入院を余儀なくされたが、無事退院できた俺は久々に我が家へと戻る事ができた。

「静かだな……こんなに静かだったんだなこの家……」

独り言を零し部屋へと戻る。
ソファーに深々と腰掛け暫く黙っていると……。

「うっ……」

涙が自然と溢れてきた。
どうしようもないくらいに。
必死に堪えようとすればするほど、決壊したダムの様に次から次へと流れてくる。

「チョコおっ!!」

気が付くと、俺は胸が張り裂けんばかりに叫んでいた。

「悠介、赤ちゃんみたいや」

「うるせえ!自分の家でどう泣こうが勝手……へ……?」

「なんやその間抜けな声……」

くすくすと鈴の音の様な声が響く。
振り向くと、そこには着物姿のチョコがあった。

「な、何で……お前、き、消えたんじゃ……」

「う~ん、何でやろ、気が付いたらここにおったんよ、でもうち外に出られへんしここで待っとたんやけど、いつまで経っても悠介戻ってこうへん、うわぁっ!な、なんや悠介!!」

気が付くと、俺はチョコの小さな身体をこれでもかと言うくらいに抱きしめていた。

「い、痛いやんか悠介!悠……介?」

抱きしめつつ、俺は声を押し殺して泣いていた。
悲しいからじゃ無い。
身体中から何か温かいものが溢れ出てくるような、そんな気持ちに押し出されるように……。

「悠介……」

チョコの小さな手が、俺の頭をやんわりと撫でた。

「な、なあチョコ」

「なあに?」

キョトンとした顔でチョコが聞き返す。

「外……一緒に出てみないか?」

「そ、外?でもうち、外には……」

「分かってる……けど、今なら……今なら出られる気がするんだ、危なかったらすぐ戻る!な?」

「う、うん……わ、分かった……」

俺は不安そうなチョコの手を取ると玄関に向かった。
チョコは俺の袖をぐっと掴み怯えている。

「大丈夫、俺がついてる、これからもずっと……」

そう言って俺はチョコのおカッパをくしゃくしゃと撫でた。

「うん……悠介を……信じる」

「よし、行こう!」

扉を開け外へと足を踏み出す。

柔らかな日差しが俺たちに降り注ぐ。

緩やかな風が吹き、チョコのおカッパを緩やかに靡かせた。

「気持ちええな悠介……」

「だろ……?」

「うん!」

「うわっ」

チョコが抱き着いてきた。
その顔は陽の光に照らされ、彼女の笑顔をより一層輝かせていた。

「なあ悠介?」

「ん……?何だ?」

「結婚しろ」

「け、結婚?」

「うん、結婚して子供作るんや!」

「おいおい急になんだよ?」

「そしたらうちがその子と遊んだる!」

「え?」

「悠介がうちにしてくれた様に……」

チョコの笑顔が眩しかった。
俺が辛い時、悲しい時に、いつも傍で笑顔をくれた彼女の顔が、どこまでも……どこまでも、あの太陽みたいに、眩しかった……。

「じゃあ先ずは嫁さん探しだな……それもお前が視える嫁さんを……」

「悠介……でもその前に仕事探さんとな」

「うっ……い、痛いとこ突くなお前……」

「ふふふ、悠介はうちがおらんとだらしないからな!言うとこ言っとかんと!」

「はは……頼むよ、これからもずっとな……」

「うん!」

俺の家には幽霊が住んでいる。
外へ出ようとする俺の袖を掴んで、一緒に行きたいた悲しそうにせがむ幽霊が。

でもそれはもう昔の話。今は……。

「悠介?」

「ん?何だチョコ?」

「大好きや!」

こんなにも満面の笑顔で俺の袖を掴む幽霊が、俺の家には住んでいる。
この先もずっと……。

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