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許されざる悪意

  これは、私が長年勤めていた病院で体験した話だ。
その日、私は当直の看護主任に緊急の呼び出しを受け病院へと向かった。
今朝から集中治療室で意識不明だった患者が急変したとの事。
患者は二日前、深夜に駅前で何者かに刺され、重症を追った状態で病院へ搬送されてきた。
担当したのは外科医である私で、手術は困難を極めたが、何とか一命を取り留めた。
しかし予断を許さない状況であるため、予め家族や看護婦達にその事を伝えていた、その矢先の出来事である。

「患者は?」

病室前で慌ただしくしていた看護主任にそう尋ねると、彼女は現状を詳しく教えてくれた。

「不味いな……御家族は?」

「もう連絡してあります」

緊迫した様子で彼女彼女返事を返してきた。

「分かった」

私はそう言って病室に入ると直ぐに治療に当たった。

診察に入り治療を行っていると、数人の足音が病室の入口で聞こえた。

「貴方!」

どうやら御家族が到着したようだ。
振り返ると三人の姿があった。
奥さんと二人の息子さんのようだ。
三人が慌ててベッドを取り囲む。

「しっかりして貴方!」

「父さん!」

今まで幾つもこんな場面を見てきた。
だが家族の事を思うとやはりこの状況には慣れない。
そう、私には分かっていた。
この患者はもうもたないと。
ならばせめて患者と家族が最後に対面できた事は、私にとっても唯一の救いだ。
家族もそんな私を見て察したのか、今正に事切れる患者に縋り付くようにして泣いている。
溢れんばりの涙を流す奥さん、絶望の淵に立たされ今にも崩れ落ちそうな息子、そして……えっ?

私は思わず目を見開いてしまった。
もう一人の息子だ。
泣いていない。
いや、正確に言うと、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべているのだ。
こんな事は初めてだった。
事もあろうに自分の父親である人物に対し、嗤っているのだ。
しかも目の前の光景が愉快で仕方がないといった様子で、込み上げる嗤い声を必死に推し殺そうと口元を両手で覆い隠している。

「ククッ……」

息子の口から微かな嗤い声が漏れ出る中、他は泣き叫び看護婦達は処置に追われている。

何だこの状況は……。

──ピーッ。

突然モニターから機械音が響き、私はハッとして患者に向き直った。

心音や脈を確認し、時計に目をやる。

「午前二時十五分……残念ですが……」

私がそう告げた瞬間、家族が悲痛な泣き声を挙げ始めた。
釣られるようにして看護婦達も沈痛な面持ちで俯く。
が……。
まただ。
もう一人の息子だけが愉快そうにニタニタと嗤っている。
有り得ない。
何がそんなにおかしいのか。
これではまるで死者への冒涜ではないか。
私が必死に助けようとした患者だ。
理不尽な行為により殺され無念の内に亡くなった。
なのになぜそんな患者に対し嗤えるのか。
いくら家族といえど私はそれが許せなかった。
拳をわなわなと握りしめ口を開こうとしたその時だ。

一人の看護婦が震える手で嗤う男を指さして言った。

「あ、貴方……だ、誰ですか?」

「えっ?」

その言葉に、病室にいた全員が男に振り返った。
私も含めて。

「だ、誰……貴方?」

さっきまで泣き叫んでいた患者の奥さんが、異様に見開いた目を向け言った。

すると。

「ああ……バレた?」

嗤う男が、にたあと薄気味悪い浮かべ言った。

その瞬間、病室から一斉に悲鳴が響いた。
皆飛び上がる様に後退り距離を取ると、嗤う男はその様子をニヤニヤと笑みを浮かべたまま見つめ、すうっと掻き消えてしまった。

以上が、私が唯一病院で体験した不気味な話だ。
後の話だが警察に、あの患者を襲った犯人が容疑者死亡のまま起訴、立件されたと聞かされた。
患者が亡くなった日に、自殺していたそうだ……。



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