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境界線上の奏、第三話「アリアドネの糸」

  大学の法医学部時代、先輩にキャンプに連れて行ってもらったのを切っ掛けに、伊佐美 奏こと私は、以来ソロキャンプにハマってしまった。
これは、とある非科学的な現象のせいで、将来検視官になる夢を諦めた私の、一人旅の回顧録だ。

私は今、A県M湖にある湖畔で、ソロキャンプを満喫していた。
大学を卒業し警察官を夢見ていた私は、自分の特異体質のせいで夢を諦める事になった。
その失意の最中、私を救ってくれたのがこの一人旅だ。
女の一人旅など危険だと厳格な両親には反対されたが、元々人付き合いも下手くそな私にとって唯一残されたパーソナルスペース。
そうそう諦められるものでは無い。

──パシャン

湖面に水飛沫を上げながら魚が跳ねた。
それと同時に餌のない釣り針が宙を舞い私の元に戻ってくる。

「ははは、お姉さんそんな怖い顔してちゃ魚も逃げちまうよ、それに美人も台無しだ」

隣にいた釣り人の男性が、笑い声をあげ今しがた釣り上げた魚を自慢げに見せてきた。

「そ、ソウデスネ……」

止めた。
釣りなんか非合理的な事やってられるか。
釣竿をたたみテントに戻る。

キャンプに来たからと言ってわざわざ手の込んだ事をしなくてもいい。
ましてやこっちはソロキャンプだ、魚なんぞなくても私にはこれがある。
意気揚々とボックスから缶詰と調味料を取り出す。
クッカーにレトルトのご飯を入れ水と一緒に温める。
火を起こし、フライパンにアサリの水煮缶、水、オリーブオイル、ニンニクを入れひと煮立ち。
あとはご飯を加え3~4分混ぜ合わせ、最後にパルメザンチーズ、胡椒、パセリをまぶせばアサリのリゾットの完成だ。

熱々のリゾットにスプーンを潜らせ、ハフハフと口に頬張る。
程よい塩気にアクセントとなるパセリとチーズが絡み合い、空腹の胃を満たしていく。

「美味い……」

魚なんかなくても缶詰と少量の薬味があれば料理はできる。
そう、別に魚なんか……。

「釣りたかったな……」

私は腹立ち紛れに晩御飯を平らげると、後片付けをし、その日は早めにシェラフに潜り込み休んだ。

夢を見た……。

私は湖畔の側でリクライニングチェアに寝そべり、静かに目を閉じている。
良い天気だ。
春の心地好い風が湖面をなぞり、私をそっと撫で吹く様に通り過ぎていく。
騒音も人の声も届かない。
静寂な一時、だが、ふと足元に水滴が落ちた様な気がした。
目を開け体を起こそうとした瞬間、突然何者かに足首を掴まれる。
確認しようとすると掴まれた足を一気に引っ張られ椅子から転げ落ちた。
じたばたともがく、だが私の体は恐ろしい力で引き摺られ湖へと引きずり込まれた。
パニックに陥った私は、水を大量に飲み込み水面へ逃れようと体を激しくよじる。
その瞬間、不意に見てしまった水底に、私は思わず目を見開く。
ぶよぶよに醜く膨れあがった、腐り掛けた女の顔。
水中に漂う女の長い髪が、私の体にまとわりついていた。
やがて薄れいく意識の中、醜い女の顔が不気味に笑うのを見て、私の視界は暗闇に閉ざされた。

「うわああっ!」

テントの中に荒い息遣いが響く。
大量の寝汗。
ゆっくりと辺りを見回す。
テントの中だ。
何て悪夢だ……。
シェラフから抜け出し起きると、自分の手に何か糸のような物が絡みついている事に気が付く。

「わっ!?」

糸ではなかった。
髪の毛だ。
長い髪の毛。
私もロングヘアだが黒髪だ。
手にあるの髪の毛は茶色がかっている。

私は慌てて外に出ると両手を激しく振り手を払った。

「何なんだ……くそっ」

椅子に座り落ち着こうた煙草を手に取る。
煙を深く吸い込みすぎて思わず咳き込んだ。

「あの……?」

男性の声と共に懐中電灯の明かりが向けられた。

突然の事に肩をびくりとさせ煙草を地面に落としてしまった。

「ああ、すみません」

男は慌てて懐中電灯を切り私に向かって頭を下げてきた。
よく見ると後ろにも人が二人。

何事かと見ていると、男が再び口を開いた。

「実はあそこのロッジに泊まっていた女性が行方不明になっていて、我々で探しているんです」

「行方不明?貴方達は……?」

男に聞き返す。

「あ、申し遅れました。私達はここのキャンプ場のスタッフと環境整備の組合員です。ロッジに一緒に泊まっていた男性から話を聞いて一緒に捜索しているところでして」

「痴話喧嘩で彼女だけが帰ってしまったとかじゃないんですか……?」

「いや、男性の話ではそんな素振りもなかったらしく、しかも財布や携帯なんかも残されたまま、部屋着のままいなくなってしまったと……」

「なるほど……」

春先の四月とはいえ、夜の湖畔はまだ冷える。
部屋着のまま、ましてや財布や携帯も持たずに出歩くというのはおかしい。

「今、周辺のキャンパー達も協力して探してくれているんですがどこにも見当たらなくて……」

「事情は分かりました、そのロッジはあの水辺の所ににあるやつですか?」

「え?あ、協力して頂けるんですか?」

「ええ……まあ……」

「あ、ありがとうございます!私達も一度ロッジに戻って男性にもう一度詳しく事情を伺おうと思ってたところなんです。場合によっては警察に連絡して救助要請を出さないとなりませんし……」

「まだ警察には連絡してないんですか?」

「ええ、男性がまだ大事にしたくないと」

「大事って、もうこれはどう見ても大事でしょう」

「ですね……まあ我々も事件となると色々と大変なので、できれば先に見つけたかったんですが、そうも言ってられない状況です……あ、良ければロッジまでご一緒しませんか?一人でも手助けがあった方がいい、なあ皆?」

周りにいた男たちが一斉に頷く。

「分かりました、直ぐ支度します」

私はそう返事を返し、必要な物だけ取りジャケットを羽織ると、男達の後に着いていく事にした。
普段なら余り関わりたくないが、事が事だ。
それにさっきの悪夢のせいで寝着けそうにもない。

やがて、男達に案内されるまま、私は水辺に面した二階建てのロッジへと辿り着いた。

「管理人さん!」

二十代前半の若い男性が言いながら駆け寄ってきた。
それを見て、先程事情を聞かせてくれた男が申し訳なさそうに首を振る。

「そう……ですか……」

若い男性は言いながら悔しそうに俯いた。
どうやらこの男がいなくなった女性の彼氏のようだ。

「そ、そうだ!実は見て欲しい物が!」

若い男性は顔を上げそう言うと、ロッジの方へと向かった。
私達は顔を見合せなんの事だと思いつつ男性の後を追う事にした。

「これです……」

「こ、これは」

男性の声に管理人と呼ばれた男が思わず驚きの声を漏らす。

ロッジの裏側、水面すぐ近くのコンクリートの床に、血溜まりができていた。

「さっき警察に連絡しようか迷っていた時に見つけたんです……それにあれ……」

若い男性がそう言って二階にあるデッキ部分を指さした。
皆が一斉に視線を向けると、デッキにある柵の一部分が崩れ掛けていた。

「ま、まさかあのデッキからここに落ちて……!?」

管理人の声に周りが一斉に慌てふためく。
男がゆっくりとすぐ近くにある湖面に目を向けた。

誰もがゴクリと唾を飲み釣られて湖面を見つめている。

腐り掛けた柵に寄り掛かり、衝動的にコンクリートに落下し、弾みで水面へと……。

「う、嘘だろ……!」

男性が声を張り上げ水面へと走った。

慌てて私達も後を追うようにして水面へと向かう。
覆い茂る水草、それらを必死に掻き分けた。

「恵美子!」

男性の悲痛な声が響いた。

「うわっ!」

他の男達も一斉に驚きの声を上げる。

暗闇の中懐中電灯が水面を照らす。
女だ。
水草に隠れるようにして、女の体が水面に浮かんでいる。

「お、おい皆!」

管理人がそう叫ぶと、男性が抱き抱える女を、ハッとして皆が一斉に抱えだした。

水面から女の体が引きずり出される。
そのままコンクリートに寝かせると、若い男性は恵美子と呼ばれた女にすがり付き、雄叫びのような泣き声を挙げた。

「こ、こりゃあもう……」

「ちょっといいか……」

私は顔を背ける管理人を押しのけ女へと近付いた。
泣き続ける男に頭を下げ、女の脈拍と心肺の確認を取り、持っていた懐中電灯で女の瞳孔を確認する。
心臓に組んだ両手を押し当て真上から何度も強く押し当てる。
大きく息を吸い込み女の口を覆うようにして酸素を送り込む、そして再度心臓に耳を当てそれを繰り返した。

無駄か……。

「はぁはぁっ……」

やがて息が上がり女の胸から手を離した。
そして黙ったまま男性に首をゆっくり横に振って見せた。

「断定はできないが、皮膚の膨張もまだ起きていない、状態からして死後数時間ってとこだろう……」

「そんな……恵美子……」

私の言葉に男が再び沈痛な顔で俯いた。

「警察を……」

「あ、ああ」

私の声に管理人がスマホを取り出す。

私は立ち上がりロッジの壁に寄り掛かるように座った。

何ともやるせない気持ちで目の前の光景に目を細める。

若い男性は必死に涙を堪えロッジに毛布を取りに戻り、他の男達は必死に手を合わせ、ブツブツと何かを唱えている。

「連絡終わりました、十分程でこちらに来るそうです……」

「そう……ですか」

そう力無く管理人に返事を返すと、ロッジから男が毛布を持って戻って来た。

だが。

「うわっ!」

「ど、どうしました?」

管理人が驚く私を見て声を掛けてきた。

「い、いや……別に……」

「は、はあそうですか」

私は両膝を抱えすぐ様俯いた。
触った肌が粟立つ様な感触がする。
ガクガクと震える膝を力強く押さえつけた。

毛布を持ってきた若い男性……その首には、私が先程テントで見た長い髪の毛がびっしりと絡まっていた。
しかも、まるで意志を持っているかのように男の首で蠢いている。
明らかに異常な光景だ。
しかしそれに対して周りは誰一人反応を示していない。
まるで見えていないかのように……。
間違いない、これは……アレだ……。

以前にも見た事がある。
医学を志した者として、絶対に見てはいけないもの。
非科学的な現象。
妄想や幻覚、精神理念上にしか存在を許されていないもの。
あんなものがあっていいはずがない、いや、存在してはならない。

私は遠い過去、アレが見えてしまったせいで、夢を諦めたのだ。
非科学的な現象を認めざる得ない自分に落胆し、科学を信じきれなかった自分に失望したから……。

──ピチャン

水辺から音がした。

不意に目をやる。
ロッジの明かりに微かに照らされたその先、あの女がいた。

水面から僅かに顔を半分だけだし、長く垂れた髪を水面に浮かべ、醜く膨れ上がった顔でこちらをじっと見据えている。

震える視線を思わず反らした。

何か……何かあるっていうのか……この男に。

恐怖にすくみ上がりそうな自分を必死に押さえ付けた。
考えろ……何がある……何があるって言うんだ……!
心臓の鼓動が早くなる。

何でこんな事に……何でいつも私なんだ……。
私に何を……。

襲い来る寒気に身を凍らされる中、ふと、微かな感情が芽生えた。

理不尽な現象、
しかもそれは私にだけ牙を剥く。
それらに対して芽生える苛立ち。
そう、これは僅かな怒り、だがそれは燻る灰から炎が湧き上がる様な感覚だった。

私の夢を奪い、都合よく現れては何とかしろとせがんでくる、理不尽な奴らに対しての怒り。

私は震える足で立ち上がると、もう一度女の元へと近付いた、

「あ、あの、か、顔色が悪いようだけど、大丈夫ですか?」

管理人が心配そうな顔で私の顔を覗き込む。

「女を……御遺体を見せてください……」

私は独り言のようにそう言うと、周りの制止を無視して毛布にくるまった遺体に触れた。

「な、何をするんですか!?」

若い男性が食ってかかるように身を乗り出しできたが、私はそれを強引に押し退けた。

「すまない……でも、邪魔しないでくれ」

男が気圧されるようにして後ずさる。

遺体をくまなく見回す。
脇の下や背部、足周り、後頭部に皮下出血はあるが外傷は無い。
血痕は……あった。
鼻の下に僅かにこびりついた血痕の痕がある、

鼻血を流したのか……。

遺体を毛布に包み直す。
立ち上がりコンクリートに残る乾いた血溜まりに目をやる。
やがて視線をデッキに移す。

あそこから落ちて弾みで……。

そうか……なんで、何でこんな事に気が付かなかったんだ私は……。

再び壁側にもたれるように座り直す。

「ふふ……なあ、すまないがその人と二人にしてくれないか?」

「えっ?」

管理人が訝しげに私を見る。

「彼氏さんと二人で話がしたい……」

「いや、しかしもうすぐ警察が……」

「頼む、警察が来るまでの間でいい……」

なおも食い下がろうとする男達に、私は射すくめるように言った。

「わ、分かりました……おい」

「あ、ああ……」

管理人を含め男たちがその場を去っていく。
若い男性を残して……。

「ど、どういうつもりですか?一体何を」

言いかける男に片手を上げそれを制す。

「まあ座れよ……ちょっとだけ付き合え……」

男は不満そうな顔で返事も返さず私の隣に座った。
長く濡れた長い髪の毛が、未だ男の首元を這いずっている。

私は煙草を取りだし口に加えるとジッポで火を灯した。

「吸うか?」

煙草を男に差し出す。

「こんな時に何を!」

「こんな時だからだよ……頭の中がぐしゃぐしゃなんだ……」

「用がないなら僕は、」

「あんたはこれが事故だと思うか……?」

「はあ?誰がどう見ても事故でしょ!?」

「おかしいとは思っていたんだ。直ぐに警察に連絡しない、人が集まった所で血痕やデッキにある柵の損壊の説明、さも水辺に落ちたと思わせる行動……」

「さっきから何が言いたいんだあ、」

「自首しろ……」

「えっ……?」

男の口から乾いたような声が漏れる。
遠くから緊急車両のサイレンが聞こえてきた。

ため息と共に煙を吐き、重苦しい口を開く。

「聞いた事がないか……?人間の体は体重の約60パーセントが体液でできている。例えば水を大量に入れた袋をあのデッキから落としたとしよう……どうなると思う?」

「ど、どうなるって……」

聞き返す男に私は再び口を開いた。

「弾まないんだよ……」

「なっ!?」

男の目に微かな感情が見て取れた。
これは……怯えだ。

「確かに水面は近い、2mってとこか、でも弾まないんだよ、壁に当たってとかならまだしも、この高さで、あの角度じゃ水面までどう足掻いても転がらない」

「わ、分からないだろ!」

「分かるさ……化学って貧弱な武装を身にまとってきた私にはな……それに、血痕だ……」

「け、血痕?それが何だって言うんだ!?」

「遺体には外傷がなかった。後頭部に皮下出血はあったがな。おそらくあのデッキから落ちた際に打ち付けたものだろう、脳挫傷でも起こしたのかもしれない。あの血溜まりはその時に彼女の鼻血でできたものだ」

「そ、それが何だって言うんだ!?」

「鼻血は一気に吹き出さないんだよ……徐々に、ゆっくりと流れ出すんだ……」

「つ、つまり何が!」

取り乱す男に、私は思いっきり煙を吐きかけた。

「な、何を!?」

「あの血溜まりは時間が経ってできたものだ!彼女は落ちて暫く鼻血を流して放置されていたんだ!つまり……弾んで水面に落ちたなんて事はないという証拠だ!」

腹の底からぶちまける様に言った瞬間、男は顔を青ざめさせ、コンクリートに尻もちを着き崩れ落ちた。

そして男の履いていた靴を片手で掴み靴裏をまじまじと見つめ言った。

「靴底に付着している木屑はなんだ……?あのデッキの柵を蹴り倒した時にでも付いたものか……?まっ、柵を詳しく調べれば分かることだけどな……」

男を睨みつけ冷たく言い放つ。

女が落ちたのは事故だったのかもしれない。
が、少なくともこの高さではそう直ぐに死ぬ事はなかっただろう。
脳挫傷を起こし、瀕死の状況にあった彼女を、この男は水面に突き落とした。
あたかも柵が腐っていたかのように偽装までし、彼女の息の根を止めたかったのだ。
そこにどの様な理由があったかは私は知らない。
知らないが、こいつが人を殺めた事に変わりはない。

警察車両と救急車が近くで止まり、複数の足音が迫ってくる。

「自首しろ……これが、最後のチャンスだ……」

私は力無く項垂れる男にそう言い残し、その場を去った。

事件から数日後、私はあの事件があった湖畔を訪れていた。
晴れ渡る青空、こんな日にキャンプできたらなと思うが、今日はそのために来たのではない。
あの事件から次の日……湖畔からまたもや遺体が上がったのだ。

そう、あの男の遺体。

あの後管理人にも確認をとったが間違いなかった。
事件は悲しい事故として処理され、誰もがあの男に同情の目を向けた、その矢先だったという。

花束を手に持ち、水面に近付いた。

──ピチャン

水面から音が聞こえた。
静かに視線を向ける。

あの女だ。
醜く膨れ上がった歪な顔。
水面から顔を半分だけ出し、私をじっと見ている。

「お前が殺ったのか……?」

女は何も答えない。

「お前は恵美子さんじゃない……彼女は私と同じ黒髪で髪も短かった……」

やはり何も答えない。

「ずっと昔からここにいるのか……?ここで…死に魅入られた人を待ち続けて……引きずり込んだのか?」

女が答えない代わりに不気味な笑みを浮かべて見せた。

「くっ……お前は……お前は一生そこで佇んでいろ!一人で!この冷たい湖の底でな!!」

私は持っていた花束を女に投げつけ背を向けた。
去りゆく瞬間、握った拳に違和感があった。
糸のような感触。

「導きの糸……アリアドネの糸かよ……」

私はそう零し、手のひらの髪の毛を虚しく振り払った。


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