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自称INTJが自由について思うこと

久しぶりにnoteを覗きにきた。数ヶ月前に書いた、kpop関連の記事に20以上のハートが付いて、少し嬉しい。(いいねの数を全く気にしないというか気にしたくない私でも)

今日書こうと思ったことは、決まりやルールについて。最近は「多様性」とか「自由」という言葉が至る所で目にされるようになった。
ここでのこれらの言葉は一人歩きしているように感じる。
果たして多様であればあるほど、いいのか。人は自由を語る時、それに伴う「責任」についてどれほど考えているのだろうか。



個人的に思うルールの概念(INTJっぽいとかあるのか?)

守るためにある。破るためではない。
周囲の迷惑にならないようにするため。
形骸化した無意味なルールは排除するべき。




紫の髪と学校

学校というものは社会の縮図である。社会にはルールがある。それ同様、学校にもルールがある。
先日、モデルの仕事をしていて髪を紫に染めているために、通常登校を中学校側に許可されず、別室登校をしているという女の子の記事を読んだ。


まわりがやっていたら自分もやっていいと思うのが中学生であるように思う。
「あの子が染めているから私もやりたい」という声が上がることを危惧して学校側はなるべく触れ合いをさせないようにしているのだろうか。
記事が片方からしか事情を聞かず、学校の意見は女の子側を通してでしか載せていないため公正さに欠けるし真の目的がわからないのだが。
個人的には、義務教育の間に、ルールを守らないとコミュニティでは受け入れられないということを理解させる分にはいいと思うから賛成。





メイクと学校


同時にメイクをしてはいけないという校則は時代遅れかという議論を見かけるが、そもそもこの校則はどうして必要なのか、そこを考えないと始まらない気がする。

例えば、学校は勉強する場であって、メイクは気が散る、とか容姿についての過度なこだわりやコンプレックスを生んでしまい良くないとか…
「私はメイクをしていた方がモチベーションが上がって勉強したくなる」という人がいてメイクokにしたとする。
勉強よりメイクに比重を置いてしまう子には残念ながら勉強してもらう良い効果は得られない。
「良い子」に基準を合わせると、他に漏れが生じる。そのためにメイク禁止ルールは排除できないのだ。
私自身かつて疑問に思う場面に出会したので紹介したい。

〜校内のエレベーターにて、メイクバチバチ女子生徒2人と一緒になる。〜
女1「今日〇〇(教師の名)にメイクバレたんだけどぉ」
女2「え、ウザ」

この一瞬の会話に違和感を感じた。
校則で禁止されているのにメイクをして、なぜいざそれを注意した教師を今度は悪者にするのか?
校則を破ってまでするなら、校則を変えて堂々とすればいいのにと思ってしまった。

個人的に解決案として
パターン1 「メイクをする正当な意義を見出し、学校側に納得させメイク禁止の校則をなくしてもらう」
パターン2「(社会に出たら化粧をしないとルール違反だから、練習をしたい)学校がない土日や放課後にメイクをする」

可愛い自分でいられるのは大事、と考えるのであればパターン1 の方が有効なのだろう。そして先の場面の女子生徒にも。

欧米化

この数年で、自分を変えずに相手に認めさせる、相手を変えさせるということを「多様性」「自由」という言葉でさもそれが当たり前だとする考え方が広がったように感じる。間違った「自由」が大きな顔をしているのだ。

欧米化の結果か。
毎回思うのだが、日本は欧米由来のものを取り入れるのが下手すぎないか?(キムチやラーメンを日本風にして昇華させたあの才能は何処へ)


日本人の元の良い文化や気質に合うように調整しながら受け入れるならまだしも、表面だけ取り入れて、その害は全く考慮していない。

誰かが自由を振り翳せば、他の誰かがその尻を拭ったり、皺寄せがくるものなのだ。それをみんながやってみようというもんなら、互いを傷つけ合い放題、迷惑かけ放題になってしまう。
アメリカは多様な人種が生活し、「自由の国」と称されるが、それ故の、実力主義であるし、残酷な面も持つ。



日本のメディアは、アメリカナイズされた考え方が大好きだし、それを日本に広げようという一心でデメリットは全く報道しないことだってある。
結局「よそはよそ、うちはうち」理論で割り切って考えるのも意外と重要なのかもしれない。


「多様性」や「自由」を盲目的に「良いもの」と捉える考え方に辟易してしまう今日この頃。




長い駄文を読んでいただき、
どうもありがとうございました🌿



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