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解説 愛がなければ無に等しい(第一説教集6章2部) #32

原題: A Sermon of Christian Love and Charity.  (キリスト教徒の愛について)

第一説教集第6章「キリスト教徒の愛について」の第2部の解説をします。テーマを聖句で言えばこれでしょう。

愛がなければ、無に等しい。(コリントの信徒への手紙一 3章2節)

第2部のポイントは次の5点です。
①第1部の振り返り
②敵をこそ愛すべきである
③愛には二つの働きがある
④悪を罰することは愛である
⑤まとめと結びの祈り

第2部は第1部の振り返りで始まります。愛には二つある。それは神への愛と隣人への愛である。このことが確認されます。第1部でも触れられましたが、友人を愛するだけならば異教徒でもできる。真のキリスト教徒であるならば、イエスに倣い、イエスがなされたように敵を愛するべきである。そう説かれます。

わたしたちは救い主キリストの生き方とその教えを心に置かなければなりません。キリストはご自身に敵意を向けられても、「敵を愛せよ」とわたしたちに示され、わたしたち人間を愛してくださりました。キリストはわたしたち人間にかわって耐え忍んで恥辱を受けられ、苦しめられて残酷な刑死を受けられました。わたしたちはキリストに倣わなければその肢体とはなりえません。

とはいえ、われわれ人間にとって「敵を愛する」というのはとてつもなく難しいことであり重荷です。その敵から自分たちが害や悪を受けているからです。そこで、この説教ではこう述べられます。

不敬を為していてもわたしたちは神の赦しを得ています。神に対してわたしたちが為している不敬に比べれば、わたしたちが敵から受けている不快な事柄などはるかに小さいのですから、それを赦さない道理はないでしょう。わたしたちに対して悪を行う人を赦せないと思うならば、そもそもわたしたちが神に赦されるにはとうてい値しないものであるということに思いを致しましょう。

つまり、誰もが罪を持っているのであり、自分のそもそもの罪を棚に上げて他者の罪をあれこれと言い、敵を赦さないということにならないようにとしています。この次に愛の二つの働きが述べられます。

愛の一つの働きは、善にして他者に害をなさない人々を大切に育てることです。(中略)愛のもう一つの働きは、あえて敬意を払うことなく悪を戒めて正して罰することであり、これは罪人や不法を行った悪しき者たちに対してのみ向けられます。

聖職者の務めは特に前者についてのものであり、為政者や判事の務めは両方についてのものであるとされます。

主教や司祭の役目は、善き人々を褒めて善きことをすることに向かわせてそれを続けさせるようにし、あらゆる悪をもった人々の行いを神の御言葉によって戒めて正しくすることにあります。

説教者は言葉をもって、為政者は剣をもって、悪魔の国と戦わなければなりません。(中略)わが子が過ちを犯したとき、愛のある父ならばそれを正すでしょうし、愛がなければそうはしないでしょう。同じように、国や地域や町や家を統べるすべての人々は、神の務めへの敬意を持ち、その統治の下にある人々への愛を持っているのなら、その中で悪をなす者たちを愛をもって正し、悪を行わずに生きる人々を大切に育てるべきです。

第1部が純粋に神への愛と隣人への愛を説いていたのに対し、第2部はこれに加えて体制を維持しようとする向きの言葉が多くみられます。為政者や判事が罪人を罰するのは正当なことであり、社会の安寧を願ってのものであり、愛によるものであるということが述べられたあと、このように説教は結ばれます。

真のキリスト教的な愛をもって神はすべてのものにまさって愛されるべきです。また、善き人も悪しき人も友も敵も、すべての人々が愛されるべきです。(中略)正しさと必要な罰を求める愛があれば、悪しき者たちはそれによって善なるところに導かれます。そうすることで少なくとも神も国家も貶められ損なわれることはなくなります。キリスト教的な愛をもって生を送れば、キリストはわたしたちが天なる父の子となって御心に和解させられ、ご自身の肢体となることを約束してくださります。

今回は第一説教集第6章「キリスト教徒の愛について」の第2部「愛がなければ無に等しい」の解説でした。次回はこの試訳をお届けします。

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