哲学:自由と自在

自由と自在というテーマは、自分が高校生の時に人から貰った命題である。彼がいうに自由と自在は抽象と具体の二面性を含んでいる。

自由だけを求めれば人はふわふわして現実から離れていく。抽象性に呑まれ、夢想論者になってしまう傾向にある。しかし自在だけを求めても重くなってしまう。具体だけを求めてがんじがらめになり、夢を諦め現実主義に迎合してしまう。

自由と自在。抽象と具体は、ある時期を経て左右する。右へ左へ部分的に時期的に姿を変え、自己という様々な可能性を模索する基軸のある二つのベクトルである。

二つのバランスを整えることが重要で、自在————つまり現実主義的で夢想論を語れない人間は飛躍的な発展に疎く地道と努力を正義とする傾向にあり、成功体験を実力と考えることが多い。
一方で自由————つまり抽象主義的な人間は思考の枠を外す、囚われないことを得意とする。突発的飛躍的な向上を得意とする一方で、高度で強靭な精神性や継続性などを喪失している傾向にある。

記述した通り、これらはレッテル的に二分割されているが世の中に100と0で分かれている人間はいない。必ず両方の資質を人間は持っている。だが多く場合偏りがある。
両手に例えれば右手だけを使う人間は不便である。たとえそのほうがうまく絵が掛けたとしてもドアノブを捻るとき左手が使えたほうがいいのだ。

自由と自在という両手もそうである。人は現実に生きる、という考えは短絡的である。人は夢に生きる、も短絡的である。
夢を追うということは現実に追われるということでもあり、現実に生きるということは発展の否定でもある。
これは人間普遍の性質、変化の法に反する。
一人間の主義として現実的になればなるほど、現実性を失うことになる。
なぜなら現実主義者のいう現実とは過去を指しているからだ。
現実は分断されてはいない。現実主義者は自分が見ている現実が全体的で絶対的であると考えるほど足元を掬われる。

現実の全体像を追って眺めれば、それにはグラデーションのように端から柔らかく夢想ともつながっている。
真に現実の全体像を眺められたとき、それは真実に置き換わる。
そして真実とは自由自在の入口である。

現実主義者が夢想を知ることで、真実に至るという結論は多少暴力的表現かもしれない。
しかし夢想はすべての始まりである。これは真実である。
想像なくして創造なし。現実に基づいた想像は想像ではない、予想である。現実主義者が社会において時折態度に出している、奇々怪々な世界の法の前で自身がすべてを知りえているなどという自認はそ蒙昧である。

では夢想主義者はどういう経緯をもって自由自在へと至るのだろう。それは現実を知ることである。現実を知ること————とは、世界(世界とは国際社会ではなく、自分の外側すべて)のどこに今、力があるのだろうかを観察することだ。
すべての気づきは観察を母とする。
つまり夢想主義者は向き合わなければならない。今の自分の人生に。向き合うというプロセスが進まない限り次へはいけない。
眺めているそこに、いずれ夢が描かれるからだ。

自由自在とは、夢想と現実の同居の魔法といえる。
もし自分がどちらかに偏っているという自覚があるのなら、少しずつ変化していかなかればならない。

たびたび登場する結論であるが、人は現実に流されてはいけない。流れを変える力を人間は持っている。この力を目覚めさせなければ、不幸の糸を編み悲劇の紐とし、幸福の糸を断つことになってしまう。
自分が幸せになるかどうかは権力的な他者や世の中が決めることになる。そうなってはいけない。

不幸の糸を断ち切り、幸福の糸を編み人生を喜劇の縄としなければならない。
幼少期のトラウマ的経験、人間関係でできた大きな傷、教え込まれた悪癖悲観主義、無意識に採用してきた悪しきをなす言葉、アイデンティティ。
人生を構成する要素は多岐にわたっても、人生を幸福にしてくれる要素は決まっている。
友人、感謝、豊かさ、善い言葉使い、笑い、ユーモア、お金、自由なアイデア、叡智、隣人愛、自己愛、憩い、赦し、祈り、時間、自他へのリスペクト。

フォーカスを変えることが重要である。
既存のアイデンティティを手放して、自由な自分を想像すること。
このままいけばあと何年先はこうなっているだろうな、という予想を飛躍的に上回ってうまくいく自分を描くこと。
想像もできないほど素晴らしい自分の幸福を想像すること。
自分を幸せにしてくれるものを見逃さないセンスやアンテナも必要になる。

自由自在という光のゲートは、二つのカギによって開くようにできている。手法に照らせば自由に夢を描くことと正確に観察し認めることだ。
自在というカギは現実という価値観ではない。
あくまで現時点の位置関係を眺める作業に過ぎない。

親切なことにこのプロセスは何も難しいことはない。やらないということはあってもできないという陥穽はない。
自然体を維持する自由に創られた信念と、変化する覚悟と真摯さを必要とするが、実行に際して支払わなければならないものはない。しいて言えば都合のいい「被害者」という立場かもしれない。それだけ扉の先へは持っていけない。
なぜなら過去の自分には想像もできないほど幸せになっている自分は必ず被害者ではないからだ。


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