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最近の性加害問題、「女性が自分を大切にしていないから起こる」のではない

最近の性加害問題、事実は私も知らないが、こうしたことは芸能界だけでなく一般社会にもよくある問題なので、仮にあったらとして考える。

まずこれを「時代錯誤」「遊びの度合いが」「コンプライアンスが」と捉える向きがあるが、どうだろうか。
これは時代を遡ればOK!な話でもなく、遊びなら何でもOKな話でもない。現代からダメなのではなく、そもそも昔だってこんなのおかしかったのだ。それに社会が「気づかなかっただけ」で、「昔は良かった」のではない。
遊びと言っても、片方が遊びと思わなかった以上言い通すのは難しい。
コンプライアンスという言葉も妙だ。コンプライアンスとは本来「規則に従う」という意味。今は広く「社会道徳」という意味でも使われているが、この問題はそんな大仰な話でない。これは社会の道徳ではなく、個人の道徳レベルの話。単に個人が別の個人を尊重する気持ちを持って接するならば起こらなかった問題なのだ。一人の個人は尊重されるべきで、それは時代、社会、立場関係なくどちらもお互いを大切にし合うということなのだ。


しかし性加害問題ではなぜか「他人を大切にしなかった」というそもそもの問題をすっ飛ばして「だから(女性は)自分を大切にしないと」という論調が出てくる。
まず大前提として、Aという人が仮にA自身を大切にしていないからといって、周りもAを大切にしなくていいわけではない。AがAを邪険に扱ったとしても、そのことは周りにとってAを邪険にする理由にはならない。問題は誰にとっても他人の有り様ではなく、「私自身が他者をどう扱うか、どう接するか」ということなのだ。もちろん最終的に自分の身は自分で守らなくてはならないが、だからといってさっさと他者の責任をうやむやにするのは違うだろう。

では、ホテルの部屋飲みにくるような女性は自分自身を大切にしていないのか。自分なんてどうでもいいやと思ってやって来たのだろうか。まさか自暴自棄になってやって来たのだろうか。
むしろ逆だろう。大切というのは必ずしも自分を箱に閉じ込めることだけではない。今の自分を危険に晒さないことだけではない。私たちは誰しも未来の幸せのために今を我慢する。寝る時間を削って仕事をする、楽しみを諦めて勉強する、、それらは未来への投資でもあり同時に現在を犠牲にすることでもある。自分の未来が大切だから今のこの時間を犠牲にしようと思うのだ。方法がどうであれ。
ここからは想像だが、その業界でどうやったら這い上がれるか分からない、その世界で食べていく方法が分からない、セオリーもなさそうだという手持ちの駒のなさ、その感覚も、突然降って湧いたような人間関係に一縷の望みをかけさせてしまうかもしれない。興味本位や好奇心が勝ったとしてもそこで何かつかめれば、という気持ちを持った人間が自分自身を大切にしていないと言えるだろうか?自分が大切、少なくとも可愛い気持ちがあるからこそやって来ることもあるだろう。

どう見ても男性がメインである社会を女性がどう生きるかに直面する時、こうした問題はよく起こるだろう。同時にそうした社会である以上、自分一人が抜け駆けすればより良い身分が得られるのではないかという感覚を女性が持ってしまうことに批判を浴びせることもできないだろう。
たしかに「人を手段にしようとしたら逆に手段に(モノ扱い)された」という返り討ち的な部分はあるかもしれない。その意味では自己責任がなかったとは言えない。
ただしその過程で力のある者、決定権のある者はどう振る舞えばいいのか。全ての他者への尊重あってこその権力、力を正しく使ってこその品性と言えるだろう。
相手が悪いと思う時悪いと言うのは決して責任のなすり付けではない。仮に自分も悪かったからと思っても、相手の行為も行為としてある以上、自分の責任が相手の責任を消す理由にはならない。「自分の落ち度」と「相手の責任」は分けて考えていくべきだろう。

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