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【短編小説】大人になるとは?「言い訳」

※こちら↓のYouTubeで朗読しているオリジナル小説です。


 人間が言語を生み出したのは、言い訳がしたかったからだと、エリはわりと本気で信じている。

「エリ。ここにお金おいておくから、夕飯は適当に好きなもの買って食べてね」
 テーブルに千円札を置く母を、エリは黙って見つめた。
「何よ。仕方ないでしょ?仕事なんだから。お母さんが一生懸命働いているから、エリだって暮らしていけるんだからね」
 何も言っていないのに、母は焦ったように言い訳を重ねる。
「あ、まずい。もう出ないと。じゃあ、お母さんもう出るからね!戸締りよろしくね!」
 返事も聞かず母が慌ただしく出て行くと一転して家が静寂に包まれる。エリは少し焦げたトーストをかじった。
 リビングには母がつけているバラの香水の残り香が浮遊している。今日、母の帰りが遅くなるのは仕事のせいなんかじゃない。男に会いに行くのだ。この甘いバラの香水を振って出て行った日は、石鹸の香りに変えて帰ってくる。
 中学三年生にもなると、男女の逢瀬がどういうものかぐらいわかっているのに、母はいつまでも嘘と言い訳を重ねる。

 食べ終わった後のお皿とマグカップをシンクに置いた。帰ってきてから洗えばいい。エリは丁寧に歯を磨いた後、鞄を肩に掛けて玄関に向かった。玄関には亡くなった父の写真がある。その写真に「行ってきます」と声を掛けて外に出た。鍵を閉めて、マンションのエレベーターに向かう。
「戸締りよろしくね!」だなんて。いつもそんなことは言わないくせに。後ろめたいことがあると、言葉が増える。言い訳にすらなっていない言葉の上塗り。
 エレベーターを降りて、花壇を掃除している管理人さんに頭を下げ、学校に向かう。九月に入って少しずつ秋が近づいてくる。
 父が亡くなったのは、エリが三歳の時。交通事故だったという。父の記憶はほとんどない。もっぱら撮る側だった父のビデオや写真はあまり残っていないから、エリの中の父は玄関の写真の父だ。幼い頃こそ母は父の話をよくしてくれた。バイクが趣味で母を後ろに乗せていろんなところへ連れて行ってくれたことや、エリの一歳の誕生日には一週間かけて祝ってくれたことを話す母は楽しそうだった。
 しかし、中学生になると、母は父の話をしなくなり、バラの香水をつけるようになった。それから三年近く経つが、母はまだ男の話をエリにしようとはしない。最初は娘に気兼ねしているのだと思った。新しい男を娘が受け入れてくれるかわからないから、もう少し様子を見よう、と。エリは、新しい父ができることを悪いことだとは思っていない。むしろさっさと連れてきて、紹介してくれればいいのにとイライラするくらいだ。

 学校から帰るとマンションのエントランスに加藤のおばさんがいた。エリは加藤のおばさんが苦手だ。いつも誰かの家のベルを鳴らしては、玄関先で長いこと話し込んでいる。相手が迷惑そうな顔をしていてもお構いなしで、むしろ私と話すと楽しいでしょう?という誇らしげな顔をしている。
 今日は珍しく一人だ。パンパンに膨れたエコバックを下げているから、スーパーからの買い物帰りなのだろう。
「あら、エリちゃん。おかえり」
「ただいま、です」
 エリは俯きがちに答え、いつもよりゆっくりつまみを回しポストを開けた。執拗なまでにポストの中身を確認し、取り出したチラシやら請求書やらを確認するが、加藤のおばさんはエリのそばを離れようとしない。
 エリは無視を決め込んで、興味のないピザの写真を眺めながら、エレベーターに向かおうとした。
「エリちゃん」
 やっぱりか、とエリはため息を飲み込んで振り返った。
「何ですか?」
「今日、お母さんの帰りは遅いの?」
 加藤のおばさんは作り笑顔を浮かべながら、尋ねた。
「わかりません。遅くなるかもしれないとは言っていましたけど」
「そうなの…」
 加藤のおばさんは頬に手を当てながら、「でもエリちゃんに言うのもねえ…」とかなんとかぶつぶつ言っている。おそらくこちらから「どうしたんですか?」とでも問いかけるのを待っているのだろう。エリはイライラして、何も言わず踵を返して歩き出した。
 エリの行動が思いもよらなかったのか、大きな裏返った声で「エリちゃん!」と叫んだ。
「何ですか?」
 思わずため息まじりに振り返ったエリに、加藤のおばさんは一度たじろいだが、口を開いた。
「あのね、こんなことエリちゃんに言うことじゃないかもしれないんだけど、エリちゃんのお母さん、お付き合いしている男性がいるみたいなのよ。この間駅前で腕を組んで歩いているのを見ちゃってね」
 そこまで言ってちらりとエリを見た。エリは無言・無表情で見つめ返した。「だから?」と言ってやりたかったが、加藤のおばさんがすかさず口を開いた。
「その男性なんだけどね、奥さんがいる人みたいなのよ。左手に指輪をしていたから間違いないわ。不倫ってわかる?結婚している人とお付き合いしちゃう悪いことなんだけどね、あなたのお母さんがその悪いことをしてるの」
 エリは内心驚いたが、「ああ、だからか」と納得もした。父の話をしなくなった母、新しい男を紹介しない母、言い訳ばかりの母。相手が結婚している男だからだったのか。
 エリは相変わらず無表情で、無言のままだ。その表情を加藤のおばさんはショックを受けていると解釈したらしい。
「ごめんなさいね。エリちゃんにこんな話をして。私もすごく迷ったんだけど、こういう話は早くした方がいいと思って。ほら、エリちゃんはしっかりしているから。お母さんにずーっと嘘をつかれたままなのも嫌でしょう?それにエリちゃんのことを全く知らない人から知らされるのもねえ?だから小さい頃からよく知ってる私が話したほうがいいと思ったのよ。私はエリちゃんの味方だからね?だから──」
「もういいですか?」
 エリはたまらず口を挟んだ。
「もう、帰ってもいいですか?」
 エリの重ねた苛立ちの言葉に、加藤のおばさんは「え、ええ」とたじろいだ。エリはくるりと背を向けてエレベーターに乗った。

 人間は言い訳ばっかりだ。特に大人は言い訳ばっかりだ。そう気づいてから、エリは言葉を閉ざした。上手い言い訳を思いつくことが大人だというなら、大人になんてなりたくなかった。

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