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大人の恋愛小説「負けたのはあなた」

※こちら↓のYouTubeで朗読しているオリジナル小説です。


「ねえ、ちょっと待って」
 大きなボストンバッグを肩にかけ、今まさに出て行こうとする男に声をかけた。
「なに?」
 ため息交じりで鬱陶しそうに振り向く彼。どうせ私が最後のあがきとばかりにすがりつくとでも思っているのだろう。そんなわけないのに。
というか、この間はもっと申し訳なさそうな顔をしていたくせに、今はまるで別人。束縛の強い女を刺激しないように頑張っている俺偉い、というような顔をしている。どうせあの女に何かささやかれたのだろう。

私に冷めた視線を投げつける彼は、つい十日前まで私の恋人だった。お互い27で付き合いはじめて5年。同棲して2年半。年齢的にもそろそろ結婚かと思っていたところで彼から切り出されたのは、プロポーズではなく別れ話だった。
「好きな人ができた…」
 ダイニングテーブルに着き、うつむいて私の目を見ることもなくそう言った。
「…誰?」
 私はショックや悲しみを押し殺して、努めて冷静に問いかけた。
「同じ課の後輩の…志村さん」
 あいつか…
 相変わらずこちらを見ようとしない男の言葉に、職場の目ばかり大きい後輩の顔が浮かんだ。たしかバレンタインにチョコをもらったと言って浮かれていた。恋人以外のチョコをもらって浮かれるなんてどういう神経してんだろ、と思ってはいたものの、嫉妬していると思われるのも嫌だったので、「よかったね」としか言わなかった。
「彼女の仕事の悩みを聞いているうちに、いいなと思うようになって、それで…」
 最後の言葉を濁した。どこまでもずるい男だ。私は上を向いてはあーと長く息を吐いた。声が震えている。涙がこぼれそうだ。でも泣き喚いたり、感情的に相手を責め立てるには私はもう大人すぎた。
「それで?」
 冷静を装って、問いかけた。この男が自分の言葉で「別れてほしい」と言わなかったからだ。私に察してほしいのだろうが、別れの責任が自分にあることくらい自覚してほしい。
「だから、その。別れてください」
「ちゃんと目を見て言いなさいよ」
 泣くな。
 私は自分を鼓舞した。顔を上げた彼が泣きそうな顔をしている。
 ──なんでお前が泣きそうなのよ。泣きたいのはこっちなのに。
「別れてほしい」
 今度はかろうじて私の目を見ていた。
「わかった」
 すがりつく女になんて、なってやらない。お前にはすがり付くほどの価値なんてないんだ。

「よかった。アキならわかってくれると思ってた」
 別れ話が済んでホッとしたのか、この男は言わなくてもいいことまでペラペラしゃべりだした。
「アキは、ほら、強いから。俺といるより一人でいる方が幸せになれるよ。稼ぎだって俺よりいいし、男に縛られるタイプでもないしさ。志村さんは誰かがいないとダメな子だから。だからきっとこれがお互いのために一番──」
「ねえ」
 私はこめかみをひくつかせながら、このクズ男の話を遮った。
「5年も付き合った女性を捨てる時に言うセリフがそれなの?」
 彼は口をつぐみ、自分が被害者のように肩をすぼませてうつむいた。身体全体で「俺は悪くない」というオーラを放つ男が憎くてたまらない。
「なるべく早く出て行って」
 私はそう言い残して、椅子から立ちあがった。

 先日の会話を思い出すと、さらに怒りが沸き上がって来る。
「アキ…?」
 呼びかけたくせに何も言わない私に彼が「早くしてくれ」とばかりに声をかける。
「あんたが私を捨てたのは、好きな人ができたからじゃないわ」
 彼の顔に戸惑いの色が浮かぶ。私は気にせず話し続ける。どうせこれが最後なのだ。
「あんたは私から逃げたのよ。同期なのに自分より先に昇進して、評価されている私の隣にいたくなかっただけ。私の隣から逃げる口実を探してただけよ。
そんなクソみたいなプライドのために、あなたは人一人捨てたのよ。それでもあんたは自分が悪いとは思わないんでしょうね。私がこういう女だから一緒にいられなかったとでも周りに言いふらすんでしょ?好きにしたらいいわ。ただ一つだけ言わせてもらう。あんたはそのみみっちいプライドに負けたのよ。負けたのはあんた。そんな男がこれから幸せになれるはずないわ、絶対に」
 彼は口をパクパクさせたものの、何も言わなかった。
「私が言いたかったのはそれだけよ。引き留めて悪かったわね」
 私は彼に背を向けてリビングに戻った。二人で過ごした暖かいはずのリビング。
 背後でドアの閉まる音がした。

 ようやく私の目から涙があふれた。床に座りこんで、流れるままに任せる。
 きっとあの男は、捨てられた女の負け惜しみだと新しい彼女と一緒に笑うだろう。それでもかまわない。私の呪いの言葉は遅効性の毒のように忘れた頃に効いてくる。
 復讐は誰のためにもならないなんて、誰が言ったのだろう。少なくとも私は今、彼に呪いをかけたおかげで泣けている。惨めな気持ちから少しだけ抜け出せている。
 ようやく涙が止まった。ベランダに出ると、秋口らしい涼しい風が顔に当たる。見上げると青空に美しい筋雲が這っていた。

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